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立てこもりオジサンと猫

午後の授業が終わって帰宅しようとした時のこと。家まであともう1ブロックというところで、アパートの前の通りがパトカーで封鎖されていた。事情がわからないまま、同じように足止めをくらっていた人達の中から、とんでもないことが聞こえてきた。

道路封鎖の震源地は、「私の住んでいるアパート」だという。ということは、アパートも封鎖されているので、私は自分の家に帰れない。のんびり路肩の芝生に腰掛けて見物している場合ではない。

何がどうなっているんだ。

あのアパートには当時3年住んでいて、危ない目に会ったことは無かったし、そもそもLAの中でここは犯罪多発地域ではない。(だから長く住んでいられた訳だ)ドラマや映画じゃあるまいし、こんな物々しい警戒など実際に見たこともなかった。

続々と入ってくる芝生の見物人達の話をつなぎ合わせると、、、
どうも銃を持って立てこもっているらしい。
誰かが「私のアパート」で。それも部屋の位置から見て、「私の部屋」の隣のオジサンらしい。

誰?
一生懸命思い出そうとしてみるが、
すぐには思い出せないくらい、影の薄い人物だった。確か、引っ越してきてそれほど長くないはず。

少なくとも銃を持って立てこもるような人間には見えなかった。(そもそも銃を持って立てこもるような人がどんな人か、想像したこともなかったが。)

引っ越して間もない大人しそうなオジサンが
何でそんなことになっているのか、肝心なことがわからないまま、イライラと時間だけが過ぎて行った。

「ベトナムの帰還兵らしい」
「ヘビードリンカーで、落ち込んでいたって」
「別の街に住んでいる彼女がいるらしい」
「その彼女から、彼が飲んで問題を起こしている〜自殺する恐れがあると、今朝早く地元パサディナの警察に通報があったらしい」

ただの酔っ払いの自殺騒ぎでここまで物々しく道路封鎖、アパート封鎖はしないだろう。
問題は、「銃を持っている」ことなのだ。
朝早くから、電話で説得を続けているが、オジサンは出てこない。つまり「立てこもっている」のだと。

オジサンが無事なこと、銃を持っていないことを祈りつつ、3〜4時間経過。銃声がすることもなく、ドアを蹴破る音もなく、派手な取っ組み合いも無く、オジサンはパサディナ警察の人に連行されて出て行くという何ともアンチクライマクティクな終わり方だったが、とりあえず私は暗くなる前にアパートの自分の部屋に戻ることができた。

戻ってすぐ、アパートの同じフロアで、
子猫を1匹大事そうに抱えている警官を目にした。オジサンの飼っていた猫を保護したとか。
(その時、オジサンは「はい、どうぞ」と猫を手放したのだろうか?猫と引き離される必要があったのだろうか? わからない。)

そんなこんなで、やっとたどり着いた私の足をすくませる出来事が家の前で待っていた。入り口のドアが無くなっていたのだ。壊れていたとか、倒されていたではなく、ドアが丸ごと無くなっていたのだ。
これは!?
立てこもり騒ぎの間中ずっと、
私の玄関にはドアが無かったということ?

ええい、
アパートに出入りしていたのは大勢の警官とその関係者だったはずだから、大丈夫だったとしよう!今さら心配しても、後の祭りであった。

後日アパートの管理人「ホセ」お爺さんに事情をただすと、「その朝、部屋のドアを修理する予定で作業を始めた途端、偶然に立てこもり事件が起こった」のだと。
「ちょうどドアを外したその時、警察からアパートの外に避難するよう命じられた」のだと。

笑えない話ではあった。
銃撃戦にも巻き込まれなければ、不審者に自宅侵入もされなかったという二重の不幸中の幸い。


数日後、立てこもりオジサン、
ご本人を見かけた。
ごく普通の土曜の昼下がり、ごく普通の家事(洗濯)をするオジサンに、共有のランドリースペースで。薄かった影はさらに薄く、一段とくたびれて見えた。16世帯ほどのアパートの住人で話しかける人は誰もいなくなっていた彼に思い切って聞いてみた。

腫れ物に触るようにならないよう、普通を装いながら。

Hi, how are you?
I was hoping you are well.
What was it all about?
ハーイ、元気、大丈夫?
大変でしたね。
あの日は、いったいどうしたの?

オジサン、ぽつりぽつり答えてくれた。
俺は銃なんか持っていなかったし、
今も持っていない。
ここのみんなに迷惑かけることになるとは思ってもみなかった。誰も自分に話しかけてくれないし、近々、ここを出ることになったから、もうどうでもいいけど。
(そう言えば、ドアにeviction=立ち退きの通達が貼られていたっけ)

話してくれたのは、これだけ。
話せたのは、これが最後。
立てこもりオジサンの話は、これで全部。

アメリカのあちこちでよくあるかもしれない、
地方新聞にも載らない出来事。
私がこのことを覚えているのは、彼が私にとって実在の人、隣の住人だったから。

あの時、オジサンは
遠くの街に住んでいた彼女が警察に通報しなかったら、立てこもらなかった?
立てこもらなかったら、
誰にも気づかれなかった?
誰にも気づかれないまま、
あのアパートに住んでいた?
私の隣に?

いつまで?
ずっと?

わからない。
わかっているのは、
あの日、警官に保護された子猫にはもらい手がすぐついたということ。

オジサンの行く先は、わからない。
聞く人は誰もいなかったから。

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