51 悟りの境地なるもの
なんとなく感じていることがある。
イエスキリストや釈迦をはじめとするその他の覚者たちは、違う言葉や言い回しでひたすら同じ事を言い残してくれているよう思えてならないということ。実は皆、同じ魂だったりして、、なんてことも思う。
まぁ…それはともかくとして、おそらく皆、似たような境地に辿り着いたからで、本人の言葉や弟子が語るとそうなるのは至極当然なのだろう。
彼らの達観した境地がどんなものなのか私には分からない。ただ、その“悟りの境地”なるものは、もしも辿り着いた人がいるのなら、それはおそらく“日常の暮らしや身近な人間関係の中で得られる”のだと思っている。
滝に打たれたり、高野山で修行したり、ヒマラヤの奥地で修行したからと言って必ずしも悟りを開けるというわけじゃない。勿論、そこを訪れることを通過点としている魂もいて、“人生という名の一枚の絵”にそれが描かれている場合はあると思う。
でも、現代社会において大多数の人は違うはず。
必ず日常生活で「一枚の絵」を完成できるように設定していると思う。
逆に今回はそーゆーことはしない、と決めてきた魂もたくさんいるだろうし。どちらにせよ、それは自分の魂が知っている。
ここで言う私が考えている「修行」という概念は「出家+山奥で一人で生活」みたいなイメージ。
“2ヶ月は山奥で修行して、終わったら神戸の自宅で生活してます”みたいな、帰る家がある状態の話ではなくて、いわゆる本気の人のことである。(修行旅行が悪いと言っているわけではありません。)
例えば、過酷な修行を続けていたけど「もう自分には悟りを開くことなどできない」と諦めた先で“悟った”という話を聞く。一見、修行で悟ったように思うけど実はそれとは関係ない。重要な通過点ではあるけど、必ずしも修行という“手段”がそうさせるのではない、と思っている。
おそらく、①すべてを捨てて挑み、②その上で悟りたいという強い執着すら手放し、③すべてを諦めた、という心の変遷や道のりこそが肝なのだと思う。
釈迦は、実は“悟り”に対してすごく強い執着があったのではないかと思う。執着という名の情熱。だってそうじゃないと全てを捨てて「悟りの道」に進もうなんて誰も思わない。でも、その誰よりも強い執着心を捨て去った先には、凡人の考えるそれとは比べ物にならないほどの境地に至る。陰極まったら陽に転ずるけど、凡人より振れ幅が大きいから、転じ方が深い。
てことは、やっぱり「出家」とか「修行」を“手段”に選んでいる魂は、それができると踏んで来た魂で、ある意味では特殊な魂なのかな。
なんか、話が堂々巡りに陥ってきた気が・・・😪
どちらにしても自分の思い込みや観念、拘りや執着心をなくすには、自分のホントの声を拾い、自分を徹底的に見つめるしかない。
だけど現代社会においてはその小さな小さな声をキャッチしようとしても外野のノイズが邪魔をする場合が少なくない。だからノイズを消すために人里離れた山奥に行くというのは一つの手段。
でも、そんなこと不可能な人が多いし、仮に可能だとしても、それは環境が整ったに過ぎないから、そこからはいかにして自分の中の見たくないものを見、認め、受け入れるか。やることはとてもシンプルなのだけど、だからこそ難しい。
さて、、美味しいご飯を食べ、よく眠り、モフモフのお布団で朝を迎えることが最優先の私はと言うと、本気で自分の声を聴く心構えが整い、行動に移したのと時を同じくして孤独になった。
つまり、自らの準備が整ったとき神の手により自動的に外野のノイズは除去された。
あれは二度目の大洗濯だった。
大きな大きな棺桶の中で死んだように生き、目の前の景色から色が失われた。
あのとき口にした食べ物の味は覚えていない。自分の影に追い立てられ、布団にくるまって目をつむると朝だった。白黒の景色は静止画の集まりに見えたし、自分だけが水中でもがいているみたいに外界の音がくぐもって聴こえ、絶えず息苦しかった。他者との繋がりは遮断され、靄(もや)がかかった時空間をただ彷徨うかのような過酷な毎日だった。私の世界に色と時間が戻ったのは大洗濯が済んだ後。
*
人間は向き合うことを避けてきた事柄に対峙する時、特有の感情と孤独を味わう。
洗濯するモノは皆それぞれ。自分にとっては耐え難い苦しみだけど、他人から見たら大したことない。なぜなら、そもそも握りしめている観念が一人ひとり全く違うから。だから取り組む時、他人と比べる必要がない。
構わず、自分の内側へとどんどん潜ってゆく。自分とは何かを突き詰めてゆくと、そんなものなくて他者と同じだと気づく。せっかく内側に潜ったのに外側へと反転させられる。ココロの水底を見た瞬間、一気に水面へ浮上するのと似ている。
そして、二極に分かれているように見えていたものが、実は“源は一つだった”と気づく。
光と闇。表と裏。善と悪。陽と陰。白と黒。
天使と悪魔。自分と他者。終わりとはじまり。
同じというか、ただ発現の仕方が違ってただけというか、自分が勝手にそう見てただけというか、どの位置に立って見ていたか、どんな意識で見ていたか…。そんな認識に変わってくる。
私はあなた。あなたは私。私以外もみんな私。
ずっと一人ぽっちで生きているのだと思ってた。
でも、私を一人に閉じ込め、隔てていたのは左脳とエゴと皮膚。右脳も魂も細胞も源へと繋がっている。これも「半霊半物質」たる所以。
イエスや釈迦の境地なんて分からない。
でも、どんどん物事の“差”を“取り”のぞいてゆく作業を死ぬまで続けてゆこうと、私は決めた。
そしたら全部まあるくなるんだ、という気がしているから☯✨
よし。私は私の道で小さな一歩を積み重ねるぞ✊
Ayumi☽