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なぜ『苦労は買ってでもせよ』なのか〜まわり道と近道のはなし〜

「苦労は買ってでもする」といいのか?

『苦労は買ってでもせよ』というのは、
古くから伝わることわざのようですね。

でも、そんなことはどうでもよくて、
何となくスッと頭の中を通り過ぎて、
「昔の人がそう言っているからそうなのだろう」となってしまいがちだなあと思ったんですね。

でも、よくよく考えてみたら意外と深い言葉だなあと思ったので、
その”よくよく”の中身を書いていきたいと思います。

苦労とは

そもそも苦労というのは、

(物事がうまくいくように)あれこれと、体や気を使うこと。骨折り。
Oxford Languages

と、辞書には書いてあります。

苦労の解釈

ここからは私の解釈ですが、
苦労というのは、
『苦しい』ことをして、
『労わる』と書きますよね。

そもそも『労わる』というのは、

『同情の気持ちをもって親切に接する』とか、
『気を配って大切に世話をする』という意味だったりします。
もちろん『骨を折る』という苦労の意味も包括したものらしいのですが、

いずれにしろ『苦労』というのは、ただ単に苦しいだけのネガティブな意味だけではなくて、
『骨を折りつつ自分を労う』というポジティブな意味なのではないかなあとも考えられます。

苦労の具体例「まわり道」

苦労して何かを成し遂げるというのは、
決して平たんで直線的な道ではなくて、

あらゆるまわり道をして、
何とかその目標にたどり着いたことを表しているように思います。

まわり道をすることというのは、
結果論であって、ゴールに行き着くための一つの道です。

そして、近道がなぜ近道として存在できるかというのは、まわり道をした経験があるからですよね。
まわり道というのは相対的な表現だという事です。

結果的に自分を労う

近道を選ぶには、まわり道を知らなければなりません。
まわり道を経験した分、近道よりも多くの情報が手に入ります。
多くの情報を手に入れた分、余分な情報を選ぶことができるので、近道を知ることができるのです。

当たり前ですが、まわり道よりも近道の方が自分を労うことに繋がります。

なので、
私は『苦労は勝手でもせよ』というのは、
周り道と言う骨折りをした分、結果的に近道を作ることができ自分を労うことにつながるということだと解釈しています。

今回は『なぜ『苦労は買ってでもせよ』なのか〜まわり道と近道のはなし』について書かせていただきました^ ^

また、あしたね😊

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