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ふと、noteの使い方が変化してきたと感じたはなし〜【宿題】から【Tweet】へ〜

始めたときは何でも『宿題』

noteを始めて、
思えばもう間も無く600日。

600日前に始めて、
コツコツ積み上げてきた…

といえば結果論ですが、
その日に感じたことを、
なんとなく感覚的に論じる。
そんな中途半端な決まりごとを、
守ったような守ってないような、

ただ、
唯一決めたことは『続けること』

どんなことが起こったとしても、
『続けること』
それだけ。

要は
私にとってnoteは『宿題』でした。

出題者は私。
提出者も私。
提出期限はその日のうち。
23時59分まで。

私の、私による、私のためのnote。
でした。

『宿題』から『Tweet』へ

1年以上続けて感じることは、
『宿題』という感覚からは、
離れていっているということです。
もしかしたらそれを習慣と呼ぶのかもしれません。

その人うちに提出するというのは、
たまにプレッシャーになる時もありますが、
スイッチが入るというか、
思考がそこに合わせるようにして働く。
そんな感覚を覚えるようになりました。

『宿題』よりはむしろ『Tweet』に近いなぁと思っていて、
ツイートは"鳥のさえずり"という意味で、
あの"Twitter"の語源となった言葉としても知られています。

鳥のさえずりは、宿題じゃないですよね?
仲間を呼んだり、気分ですること。
要は無意識のレベル。

ツイートを『宿題』のように時間をかけてする人はほぼいません。
そのときに思ったことを、
思ったように書く。

やってることはずっと同じ

多くの人の共感を得られればリアクションしてもらえるし、限りなく多くの人の共感を得ると、いわゆるバズるという現象にもなる。

ただ、それだって結果論で、初めから狙ったってそーなる確率はゼロに近いし、小さな共感を積み上げていくしかない。

ただ、それもそれで結果論。
まぁ結果論が良いとか悪いとかではなくて、
続けるという行動の決まり事の先に、
それ自体"さえずり"レベルの行動が、
結果的に『宿題』になっている、
そーゆうことなんだと思います。

やっていることは、
600日前と同じ。

ただ、感覚的に、
『宿題』をしているのか、
『さえずり』をしているのかの違い。

やっていることは
600日前と同じ^ ^

今回は『ふと、noteの使い方が変化してきたと感じたはなし〜【宿題】から【Tweet】へ〜』について書かせていただきました^ ^

また、あしたね😊✨

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