『missing』ー<メディア>は偏見を助長するか、共感性を育むか
石原さとみ主演の映画『missing』を観た。
とにかく救いようがない辛い映画だと言いたくなるが、あの家族が置かれた状況を「救いようがない」と切り捨ててしまえばそれこそ「狂った社会」になってしまう。
娘に全力の愛情を注いできた母親が、少しの息抜きにと弟に娘を預けた日、公園からの帰り道の間に娘が失踪する。テレビ局のカメラマンやデスクは、娘を見つけ出すために必死の、絶望の淵にいながらもなんとか頑張る母親を演出し、また身近に潜む犯人として弟を疑い、ストーリーを仕立て上げる。
少しでも情報が集まればと、葛藤がありながらも演出に協力する母親。言葉と偏見の暴力を見えないところからふるうインターネットの匿名の声。デスクの演出に疑問を抱き、より母親に沿った内容にすべきだと反発する記者。
それぞれが何かのためにと思って全力を注いでも、その目的が違うせいで齟齬が生じて互いに加害性が生まれる。
インターネットの匿名の声は流石に許されないでしょ、とはもちろん思うが、「幼い子が突然いなくなる」という説明不能な現象を(社会にとって存続の脅威)、なんとか自身の理解可能な形で落とし込もうとする愚かな人間による、全力の営みなのかもしれない。
よくメディアの客観性だとか、事実を伝えるだとか、中立だとか言うけれど、この世にそんなものは存在しない。
何かを人に伝えようとする時、音声だったり文字だったり映像だったりを媒介にして伝えられるけど、世の中で起こっていることは音声でも文字でも映像でもなく現象そのものであるから、どこかしらを切り捨てずして、伝達は不可能である。
しかも、現象は人によって経験の仕方が異なる。
媒介しているもの、つまりメディアを通している時点で事実とか客観性とか中立とか原理的に不可能なもの。
現象をそのまま伝えるだなんて、情報量が多すぎて、あまりにも関係性が複雑すぎて、そして何よりもランダム性がありすぎて、人間には理解できない。だからこそ理解可能な形である因果関係だとか因果応報だとか動機だとかを用いて説明しなければならない。
ステレオタイプや偏見はどうやったってなくならない。
この映画に出てくる人は全員、それぞれのタイミングで「物事を決めつける」。
それは現象や状況に対して、「こうだから」と理由をつけなければどうやったってやっていけなくなってしまうから。この世界はあまりにカオスすぎて、傾向や論理を見つけないと不安で不安で仕方なくなるから。
それでもなお、自分の偏見や間違いに気付いた時、それを正せるような人間が、それを間違っていたと言える人間が世の中にはたくさんいる。
そういう人たちのおかげで、事実とか、客観性とか、中立性とかという信念が、なんとか成り立っている。
多様性とか他者との共存とかも同じで、自分の論理と合わない価値観や出来事、人に出会った時に、「あ、こういうこともあるんだ」と常にアップデートしていける人が増えていけばこそできるものかもしれない。
「あ、こういうこともあるんだ」という幅を広げていくことこそが、今の時代に必要な「共感性」ではないだろうか。
タイトルに書いた「メディアは偏見を助長するか、共感性を育むか」。
答えは両方である。
メディアは物事をストーリー立てて、それでいながらある部分を切り捨てながら伝達を行うから、そこに偏見(説明や理由)はつきものである。と同時に、多様な物事を伝達して、こんなこともあるしあんなこともある、というこの世を見せることで、共感性を育むこともできる。
私はこの映画を通じて、「こんなこともあるんだ」という幅を一つ広げられただろうか。
そうだと嬉しい。