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日本麻雀百年史

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本誌編集主幹、西野孝夫が記す、日本に伝来した以降の麻雀実録。 伝説の連載となったこの記録がnoteで再登場!
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2019年5月の記事一覧

日本麻雀百年史 その17

【第十二章】 大衆麻雀のバリエーション

本章では、戦後の営業麻雀の推移を眺めておきたい。

  昭和23年(1948)に「風俗営業取締法」が施行された。これ以後、麻雀店はこの法律の規制の枠内で営業していくことになる。

  この時期、業界の全国組織はできておらず、大阪で昭和21年(1946)、東京でその翌年、麻雀組合の連合会ができた。

  昭和27年(1952)、大阪は戦前行われていた賞品制麻

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日本麻雀百年史 その16

【第十一章】 大会麻雀の流行

リーチ・ルールによる競技麻雀の誕生
  リーチ麻雀は、賭け麻雀に最適なルールへと発展した、ということばかりではなかった。

  いい面をみると、このルールを少し改良することで競技麻雀にも適合することができた。

  改良点は、
①一発役を採用しない。
②裏ドラ、カンドラ、カン裏ドラを採用しない。
③種々のオプショナル・ルール、ローカル・ルールを採用しない。
④赤牌を

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日本麻雀百年史 その15


「報知ルール」に途中リーチが採用された
  昭和28年(1953)11月30日から12月5日にわたり、報知新聞紙上に「麻雀報知ルール」が発表掲載された。

  特筆すべきは、それまで一部で問題視されていた途中リーチが採用されたことだった。

  新聞という活字メディアの威力は強く、その他の戦後に勃興したインフレ・ルールや仕組みも競技ルールとして定着することになった。ただし強く偶然性のある一発や裏

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日本麻雀百年史 その14

【第九章】 急成長する麻雀業界

全営業者の団結を訴える
  昭和40年(1965)代初頭、全国の麻雀営業者の数は、次の如くであった。

   昭和41年(1966)12月 11248軒

   昭和42年(1967)12月 13182軒

   昭和43年(1968)12月 14722軒

  戦後一時期からすると、急成長ともいえる数字ではあるが、全総連への加入状況は、1都2府11県で全体の1都

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日本麻雀百年史 その13

【第八章】 麻雀営業を襲った危機

麻雀営業者を悩ました税金問題
  戦後、麻雀営業が復活したばかりの時期、麻雀営業者を悩ます大問題が横たわっていた。それは営業店にまつわる税金だった。

 当時の税法では、遊技料金の半額を入場税として徴収されるほか、各種の課税を合計すると収入の七〇%を超える有様だった。これでは、営業が成り立つはずがない。営業者はやっていけない。

 税務機関に折衝するにしても、む

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日本麻雀百年史 その12

【第七章】リーチ麻雀論争

大役へのチャンスをもつ  日本麻雀連盟が再興されたのは昭和22年(1947)。その当時より途中リーチが問題となり、古谷徳太郎がその弊害を説いた。ここまでは前述した。

  ところが、同年の「麻雀タイムス」2号には、途中リーチの擁護者の論文が発表された。

  天野大三による『「立直麻雀」についての私見』がそれである。
天野のルール観は、次のごとしであった。
①雀界の動向

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日本麻雀百年史 その11

【第五章】 大衆麻雀の勃興

インフレルールの興隆
  麻雀はこうして復活したのであるが、さまざまな問題点を内包しながら、さらなる飛躍を遂げていくことになる。

  問題点を要約すれば、ギャンブル性とそれを支えるインフレルールということになろう。
  ①リーチ(途中立直)
  ②ドラ
  ③一翻縛り
  ④リャンゾロ場

  ルールに関して言えば、この4つくらいが初期のインフレルールというべきもの

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日本麻雀百年史 その10

【第四章】 戦後編

麻雀の復活
  第二次世界大戦が終わりを告げたのは、1945年、日本の年号で昭和20年8月のことだった。
  戦災により、日本の都市の多くが一面の焼け野原と化していた。その焼け野原に急ごしらえのバラックが建ち並び、飲食店や闇市のようなものが軒を連ねはじめた。
  バラックの中からは、麻雀営業を営む人たちも現れ、日増しに活気づいていった。

 
バラック建ての中から雀荘
  た

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日本麻雀百年史 その9


【第三章】 麻雀ブームとその影

賭博行為の横行
  日本麻雀連盟が創設された昭和4年(1929)頃というのは、全国的に賭博行為が横行した時代でもあった。初代総裁の菊池寛が『東京行進曲』を出版したのがこの年で、ラジオからは主題歌『東京行進曲』の軽快なメロディーが流れていた。菊池は麻雀賭博の弊害をいち早く見抜いて、賭けない家庭遊戯としての「スポーツ麻雀」を推奨した。
 
  日本麻雀連盟は麻雀の

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日本麻雀百年史 その8

麻雀ルール 統一と変革の時代
  大正末期から昭和初年、麻雀が日本に入ってきた当初は、
    三家払い
    小副計算(サイド計算)
というものがあった。今日から見ると、不合理で矛盾したルールにおもえるのだが、本場の中国がそうであるから致し方ないように思われていた。

  三家払いというのは、アガリに対して放銃者ひとりが払うのではなく他の二人も払うというもので、麻雀が伝来した当初はともかく数年

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日本麻雀百年史 その7

東西融合の対抗戦は続いた
  このルール問題で東西間のしこりはさらに深まったようであるが、それでもなお断絶状態にいたることはなかった。この時期の麻雀指導者には、大きな対立点があってもそれによる断絶状態、あるいは孤立主義を避ける良識が残されていたようだ。
 
  東西融合のための対抗戦は、まだ続いていた。その年の夏、第四回東西対抗競技会が東京で行われた。

  前年度負けた大阪側が、東京に出向くこ

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日本麻雀百年史 その6

【第二章】 日本麻雀連盟の設立と日本麻雀の創案 

東西の会議が物別れに終わった
  昭和2年(1927)、東京の空閑緑が浜尾四郎子爵、長尾克をともなって大阪を訪れた。これを迎えたのは、熱海三郎、全徳信治(このとき大阪新聞総務課長)、ほか三名の大阪麻雀人。
 
  空閑たちの用件は、「東西一堂に会して麻雀連盟組織化」の提案だった。中之島の中央公会堂の小会堂で三時間にわたり論議を交わしたが、この折

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