日本麻雀百年史 その6
【第二章】 日本麻雀連盟の設立と日本麻雀の創案
東西の会議が物別れに終わった
昭和2年(1927)、東京の空閑緑が浜尾四郎子爵、長尾克をともなって大阪を訪れた。これを迎えたのは、熱海三郎、全徳信治(このとき大阪新聞総務課長)、ほか三名の大阪麻雀人。
空閑たちの用件は、「東西一堂に会して麻雀連盟組織化」の提案だった。中之島の中央公会堂の小会堂で三時間にわたり論議を交わしたが、この折の会談では『結論に達せず、東京側はその夜帰京』したという。
家川弥吉は『麻雀賛』で、『唯一の収穫は、とにかく東西対抗競技を早急に開催しようということであった』と記している。全国的な麻雀連盟創設の話は物別れに終わったが、東西友好の礎として「東西対抗戦」をやろうとした。
この話は順調なまとまりをみせて、その年の9月、空閑が経営する東京麻雀会主催、国民新聞後援という形で第1回を開催した。この折の優勝者は山田武三郎(大阪)であった。
第2回の東西対抗競技会は、昭和3年7月、熱海が理事長を務める大阪麻雀倶楽部で開催。このときは天忠定(東京)が優勝している。
このように東西の交流は順調につづいていた。
ところが――。
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