ペットショップ
わ〜!
可愛い!
ペットショップの通りに面した側には、檻が三つ置いてある。一つ一つにわりとロン毛でストレートヘアーの犬が一匹ずつ入っている。寝ている犬もいれば、ひっきりなしに檻の角を往復しては、角で立って飛び上がり、また走って反対側の角で立って飛び上がる犬もいる。
未来の飼い主になってもらうために、必死にアピールしているのだろうか?
いや、けど目を合わせようとしない。
逃げようとしているわけでもない。
ただただ、角を往復しては立って飛び上がる動作を繰り返している。
ADHDかな?
ふと、目に入る値札。
ゼロの多さに、一瞬怯んで、つい数えなおしてしまう。
「買うと、こんなに高いんだ」と思ってしまった自分にゾッとした。
おいおい、命だぞ!
目の前の犬は生きている。
命に値段なんて......
ドッグシェルターで殺処分をどうにか免れた犬が保護される一方で、“高額“ で売買される犬がいることがどうも解せない。(犬の命に対しての値段の議論ではなく、一般的に高額とされる額での金銭のやり取りが生じることを「高額」と表現している。)
少し中に足を運ぶと、つぶらな瞳で、寒そうに、そしてちょっと怯えているかのように、全身をプルプル震わせる真っ白な幼いチワワがガラス張りのショーケースに入れられている...... 片目だけ、ちょびっとだけ白目が見える。
眼球が吐出しているわけではなさそう。きっと、健康チェックは普段からされているんだよね?
犬の斜視かな? それとも、これは生理的な範囲内?
保育器のような、無菌室のようなガラス張りの縦40cm、横100cmに満たないショーケースが壁一面に複数敷き詰められている。
その個室の中に、一匹一匹犬や猫が入れられている。ほとんどは眠っているだけで動かない。東京のペットショップ? 現代のペットショップ? なんだか、少しこの光景を受け入れることに抵抗を覚える。
それがどうも自分と少し重なる。
無菌室を連想したからだろうか?
例の真っ白なチワワはというと、檻の中の犬の何倍もの値段が付けられている。
命に値段など付けられない。
でも、事実値札が付いている。
複雑な想いだ。
どうやら、犬種や血統も関係しているらしい。
今一度、立ち止まって考えると、日常にこんなに命の価値化や選別すらも横行しているんだ、と愕然とする。
そして、私達が「普通の日常」を過ごす中で、こんなにも受け入れてしまっているのだと、衝撃を受けた。
つい、ガラス越しに手を差し出してしまった。差し出された私の手を嗅ごうと、真っ白なチワワが立ち上がって顔を近づけてきた。
しかし、ガラスが邪魔をして、接触は叶わない。まぁ、それが分かっているから、免疫抑制下でも私は近づいたのかもしれない。
やはり、複雑な気分だ。
とても可愛い。
そして、何処か切ない。
きっと、無菌室っぽい連想と値札と医療費の思考の紐付けが、感情を複雑化させているのだろう。
外界から隔離された犬や猫達は、寂しくないのだろうか?
何歳から隔離生活を強いられているのだろう?
そして、発達は正常にされるのだろうか?
買ってもらった家には、直ぐに馴染めるのだろうか?
ついつい、色々考えてしまう。
一方で、ただ居るだけで癒されもする。
生き物ってすごいなぁ。
言葉ではなく、動作でコミュニケーションを取れるのだろうか?
あるいは、ただ近くにいるだけで癒されるのだろうか?
なんだか、凄く複雑な気分で、でも何処か充電された心でペットショップを後にする。
今を大切に生きよう!