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仏教の基本概念 〜空・唯識・中観〜

九條です。

仏教の最も基本的な考え方(換言すれば仏教が仏教たる所以、仏教を最も代表する思想)は、「空」と「唯識」と「中観」です。

以下では、私が中学生の頃から40年以上、我が家の宗派(法相宗)の教えとして学んできた基本的な仏教思想(空と唯識と中観)についての私の理解を簡潔に纏めてみたいと思います。以下はあくまでも私の理解です(以下、約2,100文字)。


【1. 空・唯識・中観の関係性】
空と唯識と中観の関係性を例えるなら、唯識と中観が車の両輪であり、空がその両輪を繋いでいる車軸にあたるのではないかと思います。

ですから、空と唯識を学べば中観の存在が浮かび上がって来ますし、空と中観を学べば唯識の存在が浮かび上がって来ます。

そして唯識と中観を学べば、その両者を貫いている空の思想が理解できると思います。


【2. 空とは】
「空」とは、存在しない存在であり、存在している存在であり、存在している存在しない存在です。

分かりにくいですねぇ。

『般若心経』の一節に、

「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識(等※)亦復如是」
 ※(等)の字が入るのは古い宗派の奈良仏教系

とありますね。意味は、

「色(存在)は空(存在していない)のであり、空(存在していない)というのは色(存在)であり、色(存在)は即ちこれ空(存在していない)のであり、空(存在していない)のは即ちこれ色(存在)であり、五蘊ごうん(色および受・想・行・識=人の認識作用)などもまたかくの如し」

です。

ちょっと「何言っているのか分からない」ですね。

そこで、たとえば「法則」。法則というものは、存在しているのか、存在していないのか?

法則は人がそれを発見することによってその存在が明らかになるわけですね。では、人がその法則を発見しなければその法則は存在しないのか?

そんなことはない。人が発見しようが発見しまいが、法則そのものは恐らく宇宙の始まりから、またはそれ以前から、厳然と存在しているわけです。

つまり、法則は存在しているが、それは人が認識できて初めてその存在が明らかになるけれども、人が認識しなくても原初から存在している。

キリスト教以降の西洋科学・西洋哲学では、人が認識して初めてその存在が認められるのですが、仏教思想・仏教哲学では人が認識しようがしまいが、そんなことは関係ないと考えます。

その法則を法則たらしめている根本原理(根本の法則)を仏教では「法(ダルマ)」と定義しました。その「法(ダルマ)」の存在が「空」なわけです。

「空」というものの考え方はそういう考え方だと私は理解しています。


【3. 唯識と中観】
この「空」という存在に対して、2つの対峙する考え方が「唯識論」と「中観論」です。

唯識論は「空」そのものも人の認識作用の内側にあるのであるから、全ては人の認識の世界の中で完結していると考えました。

中観論は上記の唯識論に対して、そもそも「人の認識作用という存在も空であり、実体のないものである」から、全ては「空」であると考えました。

仏教史の中において華厳思想や禅思想は中観論の系譜に当たると思います。

唯識論は非常に複雑な論理を展開し、ひとつの学問体系として精緻を極めますが、その緻密さゆえに隙がなく、その後の新しい思想が展開する余地はなかったのだと思います。すなわち唯識思想は仏教の中においてひとつの完成された思想体系となりました。


【4. なぜ唯識は広まらなかったのか】
上記の通り、唯識思想(唯識論)は精緻を極め、疑問を挟む余地がなかったと言えます。

仏教の中には、ほかに密教や禅や法華や浄土など様々な思想体系がありますが、それらの中で唯識はひとつの完成された(完結した)思想となりました。

しかし唯識はその複雑精緻を極めた哲学思想のため、すぐには理解することができず、きちんと理解できる人も少なかったのです。

それゆえ、唯識仏教は古代においては一握りの知識人の間でしか広まりませんでした。

その後は(唯識よりは明快で少し分かりやすい)華厳思想が多くの知識人の間に受け入れられ、難解な唯識思想は衰えました。

さらにその後、直感に訴えかける密教や、そしてもっともっと平易でどんな階級の誰にでも理解・実践できる禅や法華や浄土思想といった仏教思想が爆発的に広まったと言えると思います。


【5. まとめ】
唯識思想については、その複雑精緻な哲学は私には一生かかっても理解できないだろうと思います。

ただ、私が唯識と出会えたのは過去世からの縁であり、とても幸運だったと思います。

私はまず、仏教の基本中の基本である「空」の考え方について学びました(まだ学び尽くせていませんが)。その後に唯識について学び始めたのですが、全く理解できず挫折しました。

そこで視点を変えて華厳思想を学びました。華厳を学ぶのに相当の時間を費やしましたが、華厳の「無尽縁起」の思想などは「空」を再確認し、対峙する唯識への理解の取っ掛かりを掴むためにとても役に立ちました。

かと言って、私は華厳思想も学び尽くしたわけではありません。華厳思想も唯識思想に負けず劣らず難解です。しかし空と華厳が何となく理解できたおかげで、唯識についても何となく理解できそうな予感がしています。

上述のように、私は今世で唯識を理解できるとは限りません。たぶん全然時間が足りないでしょう(もちろん「空」の理解も「華厳」の理解もですが)。

しかし信仰というものは、一生の宝であり、一生の課題であり、一生の修行であり、一生の勉強だと思っています。

私が唯識思想に出会えたのは、本当に幸運であり、私はいままで幾度も唯識のものの考え方に救われて参りました。^_^


©2024 九條正博(Masahiro Kujoh)
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