【日本仏教史】人は救われるのか、救われないのか?
1.はじめに
仏の教え(仏教)というと、慈悲深い教えであり、全ての人は仏の慈悲によって救われる…と思われがちですが、実はそうでもありません。
ここでは日本の仏教(仏教史)の中において「全ての人は救われる」とする教えと「いや、そうではない」とする教えのそれぞれの代表的な教えを簡単に述べ、その後に「いや、そうではない」という教えの考え方について、なぜそのように考えるのかを簡単に述べます(以下約2,900文字)。
2.法華系・浄土系および唯識仏教
法華系仏教および浄土系仏教では基本的に「全ての人は救われる」と説きます。これらに対して唯識仏教すなわち法相宗では「現実世界にはどうしても救われない人も存在する」と説きます。その違いを以下に簡単にまとめました。
我が国では、法華系の仏教は平安時代初期(9世紀)に伝教大師最澄が唐から天台宗を持ち帰った事によって本格的に広まります。
また、浄土系の仏教は平安時代中期(10〜11世紀)に活躍した源信や空也聖によって広まり始め、平安時代末期(12世紀)の法然上人による浄土宗の立教開宗によって本格的に広まります。
唯識仏教(法相宗)はこれらよりもかなり古く、白鳳時代の大化改新の頃(7世紀中頃)に日本に伝わり、奈良時代(8〜9世紀)に広まりました。
以下、唯識仏教における「救い」について、ごく簡単に述べます。
3.唯識仏教の五姓各別説
唯識仏教の救いは「五姓各別」説と言い、救われる(悟りの境地へと至る)のは以下の四種類の人であると説きます。「五姓」の「姓」とは「人の心の性質」という意味です。
それらをごく簡単に説明すると…
唯識仏教では、多くの人はこれら四種類のどれかの性質を持っていて、それぞれに等しく救われて行くと説いています。
そして、唯識仏教では五つ目に「(今生では)どうやっても救いようのない性質の人」が存在する事をも明確に説きます。それが以下の無性有情姓という存在です。
以上の(1)菩薩定姓、(2)独覚定姓、(3)声聞定姓、(4)三乗不定姓、(5)無性有情姓の五つの定姓をあわせて唯識仏教の「五姓各別」説と言います。
基本的に仏教では、どのような宗派においても仏が人を救う際には、仏からの慈悲とそれを受ける人の心の中にある「仏の種(仏性)」とが共鳴することによって人は救われると説きます。
しかし唯識仏教で説く所のこの無性有情姓の人は、自身の心の中に「仏の種(仏性)」が微塵にも存在しないのです。
ですから、いくら仏が無性有情姓の人を救おうとしても、いくら救いたくても、仏の慈悲の心はその受け手の側に「仏の種(仏性)」が存在しないのですから、仏の慈悲に共鳴しないのですから、どうやっても救うことはできないのです。
4.唯識仏教のものの見方、考え方
このように唯識仏教(法相宗)の教えでは、今生ではどうやっても救えない、救いようのない種類の人も存在すると説いているのです。
法華系や浄土系の教えが「全ての人は(どのような人にも仏性があるから)救われる」あるいは「仏(阿弥陀如来の本願の力)によって必ず救われる」と説くのとは非常に対照的です。
それは、法華系や浄土系の教えのように、
「こんな自分でも、いつかはきっと救われる」
と希望を抱いて理想を追い求めて生きるのか、それとも唯識仏教(法相宗)の教えの如く、
「このままでは自分は救われないかも知れない。では、これから自分はどうすれば救われるのか」
と現実の自分を直視し、問題意識を持って自己の成長を求めて生きるのか。この違いなのかも知れません。
唯識仏教の教えは、現実を直視する非常にドライな、きわめて厳しい教えだと言えます。
5.まとめ
私たちが生きている現実世界において、ときに信じ難いような凶悪な犯罪が起こります。そしてその罪を犯した人は断罪され、死刑判決を受ける事もあります。
そのような凶悪な罪を犯した人の事を考えると、私は、やはり現実の世界には「仏の力をもってしても、どうやっても救い難い、救いようのない人は存在する」としか思えませんし、それが現実の厳しさであるとも思います。
そして、現段階では罪を犯していなくとも、その危険性がある人は増えてきているのではないかとも感じます。
そのような人を生み出さないために、またそのような凶悪な犯罪を防ぐためにどうすればよいのか。
それは、いま社会に突きつけられている焦眉の問題であると思いますし、この厳しい現実から目を逸らせて理想ばかりを追い求めていても、それでは何ら問題の解決には至らないと思う今日この頃です。
【参考資料】
◎望月佛教大辭典 1974年
◎吉村誠「唯識学派の五姓各別説について」駒沢大学仏教学部研究紀要 2004年
©2024 九條正博(Masahiro Kujoh)
剽窃・無断引用・無断転載等を禁じます。