聖徳太子の仏教
九條です。
我が国に仏教が伝わった(仏教公伝とされる)のは、宣化天皇戊午年[1](西暦538年)または欽明天皇十三年[2](西暦552年)とされています。
厩戸皇子(聖徳太子)が摂政に立ったのは、推古天皇元年[3](西暦593年)とされていますから、仏教公伝から厩戸皇子(聖徳太子)の立太子までの間は(仏教公伝を西暦538年と考えると)55年間となります。
この55年間に日本に伝来した仏教の中身はといえば、三論宗が断片的に伝わっていたのみと考えられています。仏教の系譜で言えば北魏系。信仰対象で言えば、釈迦・観音と少し遅れて薬師信仰です。この時にはまだ阿弥陀信仰は伝わっていません。
また、現存する日本最古の仏教宗派である法相宗もこの時にはまだ伝わっていません。法相宗は唐代(西暦645年頃)に興りました。その法相宗の日本初伝は白雉4(653)年の道昭の頃[4]と考えられています。
ですから、厩戸皇子(聖徳太子)の当時、断片的な三論宗の教義のみで彼がどれ程の仏教の知識を有していたのかは、仏教史や文化史から鑑みるに多少の疑問が残ります。
よく「聖徳太子は仏教に精通していた」「聖徳太子は仏教研鑽に没頭した」などという記述を見かけますが、彼が著したとされる『法華義疏』などの内容を詳しく検討してみますと、当時(隋代)の主流であった鳩摩羅什のテキストよりも古い時代のテキストを用いていたり、彼独自の解釈をしている点などから「仏教に精通」とはなかなか言い難い部分があると思われます。
しかし彼は、仏教に傾倒していたことは確かであろうと思われます。それは仏教の「教えそのもの」というよりも「古墳に変わる新時代の秩序」として仏教思想を取り入れようとし、その新たなる「権威・権力の象徴」として寺院建築を用いたであろうと考えられています。
その「新時代の秩序」とは、それまでの古墳時代以来の諸豪族連合体による合議制の上に大王が立つという古い体制から、天皇・皇族・蘇我氏(推古天皇・上宮王家・蘇我馬子)を中心とした中央集権的な国家体制への転換をはかろうとしたものであろうと思われます。
しかし実際に古墳築造に法規制が及ぶのはもう少し後の乙巳の変(大化改新)翌年のいわゆる「大化薄葬令」を待たなければなりません[5]。
この乙巳の変(大化改新)以降、とくに天武・持統朝に至って、我が国は強力な中央集権体制(律令制)へと向かって大きく舵を切ります。
厩戸皇子(聖徳太子)の仏教を中心とした政策はその嚆矢であり濫觴となるものであろうと考えます。
すなわち、厩戸皇子(聖徳太子)は仏教思想に精通しこれに傾倒したのではなくて、仏教思想を新たなる時代の新秩序として(政治的に)利用し、その秩序の中心に仏教思想を据えようとしたのではないかと考えられます。
【註】
1)『上宮聖徳法王帝説』に拠る
2)『日本書紀』欽明天皇十三年冬十月条
冬十月 百濟聖明王(更名聖王) 遣西部姫氏達率怒唎斯致契等 獻釋迦佛金銅像一軀 幡蓋若干 經論若干卷
3)『日本書紀』推古天皇元年夏四月条
(元年)夏四月庚午朔己卯 立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子 仍錄攝政 以萬機悉委焉
4)『日本書紀』白雉四年夏五月条
四年夏五月辛亥朔壬戌 發遣大唐大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒駒 更名絲・學問僧道嚴・道通・道光・惠施・覺勝・辨正・惠照・僧忍・知聰・道昭・定惠定惠內大臣之長子也・安達安達中臣渠毎連之子・道觀道觀春日粟田臣百濟之子・學生巨勢臣藥藥豐足臣之子・氷連老人老人眞玉之子 或本 以學問僧知辨・義德 學生坂合部連磐積而増焉幷一百廿一人倶乘一船 以室原首御田爲送使 又大使大山下高田首根麻呂更名八掬脛・副使小乙上掃守連小麻呂・學問僧道福・義向 幷一百廿人倶乘一船 以土師連八手爲送使
5)『日本書紀』大化二年春三月条
甲申 詔曰 朕聞 西土之君戒其民曰 古之葬者因高爲墓 不封不樹 棺槨足以朽骨 衣衿足以朽宍而已 故 吾營此丘墟・不食之地 欲使易代之後不知其所 無藏金銀銅鐵 一以瓦器 合古塗車・蒭靈之義 棺漆際會三過 飯含無以珠玉 無施珠襦玉柙 諸愚俗所(以下 略)
【参考資料】
◎石田茂作『飛鳥時代寺院址の研究』第一書房 1936年
◎稲垣晋也「中宮寺跡の発掘と現状」『日本歴史』299 1973年
◎岡田英男「西院伽藍と若草伽藍の造営計画」『法隆寺発掘調査概報2』1983年
◎志水正司『古代寺院の成立』六興出版 1985年
◎奈良国立文化財研究所『飛鳥・藤原宮発掘調査概報』7,14,18,20 1977〜1990年
など
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