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【驚愕】本屋大賞受賞作『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬)は凄まじい。戦場は人間を”怪物”にする

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『同志少女よ、敵を撃て』(逢坂冬馬)は、新人のデビュー作だとはとても信じられない、あまりにも衝撃的な本屋大賞受賞作

とんでもない作品だった。「デビュー作の時点で、小説家としてあまりにも凄まじい」と感じさせる作家は、私が読んできた中でも何人かいるが、本書『同志少女よ、敵を撃て』もそんな1作である。「デビュー作にしては凄い」のではなく、「既にデビュー作の時点で、小説家として凄まじい」のだ。4000冊近くの本を読んできた私も、久々に度肝を抜かれてしまった。

そもそも扱われているテーマが「独ソ戦」である。著者の逢坂冬馬は1985年生まれで、私の2歳年下だ。当然、1941年から1945年に掛けての独ソ戦の記憶があるはずもない。そんな若手作家が、「戦争の緊迫感」「不可能とも思える作戦・戦術の遂行」「狙撃手としての心得」などについて、「とんでもなくリアリティがある」と感じさせる作品を紡ぎ出しているのだ。正直、ベテランの作家でも、ここまでの世界観を作り出すのは相当難しいのではないかと思う。

また本作では、実際に当時ソ連に存在したらしい「女性狙撃兵」が描かれる。登場人物の1人で、確認戦果309人という他の追随を許さない戦績を持つリュドミラ・パヴリチェンコは、巻末の参考文献の書名等から判断するに、実在した人物であるようだ。また作中には、「ソ連には女性狙撃兵が存在した」という事実を示す、様々な書籍からの引用が時折挿入されている。

戦時中のことなのだから機密事項も多かっただろうし、「女性狙撃兵の育成」について現時点でどこまで明らかになっているのかは分からない。恐らく、まったく資料が存在しないなんてことは無いだろう。ただそうだとしても、女性狙撃兵たちの「訓練の日々や訓練外の日常」「抱き続ける葛藤や苦労」などをリアルに描き出すことはかなり困難ではないかと思う。

そのような凄まじく難しいテーマを扱いながら「とんでもなくリアルだ」とも感じさせる物語をデビュー作で書き上げた著者には、やはり喝采の気持ちしかないし、これからもその圧倒的な才能を駆使して面白い物語を紡いでいってほしいと思う。

「戦場」は、人間を「怪物」に変えてしまう

物語は、「否応なしに人生を破壊尽くされたセラフィマが、土壇場で女性狙撃兵を育成する訓練校の教官イリーナに命だけは救われ、そのまま強制的に女性狙撃兵としての人生を歩まされる」という形で進んでいく。当然と言えば当然だろうが、自ら望んで女性狙撃兵になろうと考えた者などいない。

戦場は、過酷だ。

忘れるな。お前たちが泣くことが出来るのは、今日だけだ。

仲間の死を経験した者たちに、上官がこのように告げる場面がある。セラフィマはこの言葉を耳にした時、その正確な意味を理解できていなかった。単に、「次からは、甘えが許されなくなる」というぐらいの意味に受け取っていたのだ。

 しかし、狙撃兵として実績を積み上げ、その圧倒的な実力から小隊が「魔女」と呼ばれるようになって初めて、彼女はようやく正しい意味を理解出来るようになった。

しかし実際は違った。今日を最後に、泣けないようになる。

要するに、「自分は『怪物』になってしまった」と自覚させられたのである。

自分が怪物に近づいてゆくという実感が確かにあった。
しかし、怪物でなければこの戦いを生き延びることは出来ないのだ。

楽しむな、とイリーナは言った。自分は人殺しを楽しんでいた。

女性たちだけではなく、戦場に立つ男たちもまた、次のように考える。

イワン(※ロシア兵を意味するドイツ側の俗語)という怪物と戦うには、自らも怪物にならねばならない。

それって、指揮官が悪魔だったからじゃない……この戦争には、人間を悪魔にしてしまうような性質があるんだ。

多くの者たちが、「戦場にいる自分は『怪物』になってしまっている」という自覚を持ちながら闘いを続けているのだ。

一方で、当然だろうが、それを否定したい気持ちを強く抱く者もいる。

つまり、誰かがそれを殺す。殺す必要がある。誰が、いつ、どうやって殺したかなんて、誰も気にしない。……だから、私たちが殺したことにはならない。

自分たちが銃における引き金であって射手ではないことを教え、彼が敵はもちろん、NKVDやパルチザンを迷いなく撃てるように指南してやった。

自分は重要な任務を担っている。誰かがやらなければならないことだ。それをたまたま自分がやっているだけ。だから自分は決して「怪物」などではない。多くがそのように考えるのだが、しかし、「そんな風に言い聞かせなければ自分自身を保てない」という自覚こそが、既に「怪物」の証拠であるようにも感じられる。何とも凄まじい環境だ。

そして、そんな風に「怪物ではない」と思い込みたがっている者たちさえも、思いがけない瞬間に自身の「怪物」を自覚させられてしまう。それは、セラフィマが記者からインタビューを受けるシーンにも現れる。

「ああ、最後に一つだけ聞かせて下さい」
振り向いて首を傾げる。
「撃った敵の顔を、夢に見ることがありますか?」
それは、国内の記者の問いとしては異質なものだった。
職責から離れた問い、個人に属する質問のようでもあった。
英雄にまとわりついた虚構の皮膜をめくり、皮膚に触れようとするような問い。
「一度もありませんね」
セラフィマが直截に答えると、記者は挨拶とともに落胆の顔を浮かべた。
真の姿に迫ることはできなかった、と考えたようだった。
ちがうんだよ、とセラフィマは思う。
私は本当に一度も、そんなことで苦しんではいないんだ。

「他人の死」に鈍感だという事実を、「戦場に立たない者」に自覚させられた瞬間だ。このように彼女たちは、「『怪物』である自分」に葛藤しえながら戦場を、そして日常を生きていくことになる。

狙撃兵は、「『戦場』を離れれば『人間』に戻れる」わけではない

「怪物」になるのを避けたいのであれば、「戦場」から離れるしかない。しかし難しいのは、「『戦場』から離れれば『怪物』にならずに済むが、決して『人間』に戻れるわけではない」ということだろう。この点にこそ、狙撃兵の特異さが存在すると言える。「狙撃兵が『戦場』を離脱した」という事実は、また違った意味を持つのだ。

例えば、凄腕の女性狙撃兵2人の会話が、それを示唆している。

共通することに気付いた。
彼女ら二人はともに死ぬことなく狙撃兵という立場から降りた。
二人は生きながらえたまま、撃ちあい、殺し合う戦場の一線から退いたことを運が悪かったと形容し、それを前提として会話していた。
背筋が凍る思いがしたとき、リュドミラが微笑んだ。
「ま、これが狙撃兵の、言ってみれば生き方だ」

あるいは、ある者がイリーナに、こんな問いを投げかける場面もある。

イリーナ、戦場で死ぬつもりがないのなら、君の戦争はいつ終わる。

これらはすべて、「狙撃兵は戦場で死ぬものだ」という認識解が前提になっていると言えるだろう。少なくとも、歴戦の強者と言っていい狙撃兵はそのように考えているのである。

狙撃兵というのは、ほとんど戦場でしか役に立たない能力を研ぎ澄ましていくのだから、次第に「戦場にいること」そのものが「生きる理由」になっていく。しかしそれは、とても脆い理由でもあると言える。がん細胞が自身の宿主の命を奪うことで自らの居場所を失ってしまうように、狙撃兵も「戦場」を失えばそのまま「生きる理由」を失ってしまうことになるからだ。そしてだからこそ、狙撃兵にとって「戦場」は「死を迎える場所」という認識になるのだろう。「『戦場』が無くなってしまう前に死ななければならない」というような、実に歪んだ思考に支配されていくのだと思う。

あまりにも異常で狂気的であり、理解の及ばない世界と言えるだろう。

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