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memento mori その11 私の場合は… その3 当たり前過ぎて意識しなくなっていること

 宗教という古典的なソリューションが今でも有効な場合もあるというお話の締めとして私のソリューションをご紹介しますね。

経緯
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 私の人生は幸せだったと言い切って他界されたというお話の続編。

 大人の絵本ブームの火付け役といわれるヨシタケシンスケさんの長編作品「メメンとモリ」との出会い。

 その1は、その作品とラテン語の「いつか死が訪れることを忘れるな」という言葉の件が引っかかったというお話と、そもそもこのラテン語をnoteでの作品を通じて教えてくださったmemento Mori(モリ)さんのお話、おニ人の力強い生き方、個性に脱帽したというお話。

 その2は、奇しくもその翌日に身近な人がコロナウイルスに感染して、既往症を悪化させて他界。しかも実は昨年末にも上述の既往症がコロナウイルスで悪化という全く同じパターンでのコロナ禍が身近で起こっていて、同じことが繰り返されていることを悔しく思ったというお話。

 その3は、私の人生は幸せだったと言い切って他界された方に生前充分そう言える人生のお手伝いができたというお話。

 その4は、そのパートナーの方が静かな心でその運命の日を迎えられたというお話でした。

 その5は、そのパートナーの方が喪主でのキリスト教式の儀式での偶然のお話でした。

 その6は 閑話として

 そもそもイエスキリストは宇宙からあるいは未来の地球人が時空を遡って来たのでは

と感じたというお話でした。

 その7は資料編です。
キリスト教式の儀式の一例です。

 その8は資料編の続きです。

 極々身内のみの小さな儀式。宗教というソリューションを採用したことによる全体的な明るい雰囲気を写真で味わって頂けきました。そしてイスラエルに駐在して感じた素朴なキリスト教が例えば欧州に広がり2000年熟成されたお作法の1つのリファレンスとなってmemento moriをスマートにやり過ごす1つのソリューション形式にまで発展して、人類の一部の人を救っていると感じているというお話でした。

 その9は、宗教という古典的なソリューションが今でも有効な場合もあるというお話の締めとして、宗教ではない私のソリューション

①物理学
②生物学
③今日までの人生成果
それをまとめて心の始末という感じ。

の中の
①物理学
のお話でした。

 その10は
②生物学
のお話でした。物理学的に次いで生物学的にもmemento moriの始末は頭の中で既についているという感じまで。

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 今回は 

③今日までの人生成果

というお話です。
 

 ②生物学の中の遺伝子の件にも通じるのですが、私の両親の性的な行為によって私の遺伝子が生まれ私の身体が存在しています。同様にしてその私の遺伝子が私のパートナーの遺伝子と共になることで子孫の体内で生き続けます。その様な遺伝子の連鎖が続く限りは生物学的には私は存在していると考えています。既に今日までの人生成果として、女性、男性と2人のこどもを授かっているのでその意味では私の遺伝子セットは既に引き継がれています。しかも2人共に成人して私の知もその生物学的プラットフォーム(NI:自然知能*)に充分引き継がれています。

*NIとは「Nature Intelligence(ネイチャーインテリジェンス)」の略で、日本語では「自然知能」と訳されています。NIは人間などが自然に持ちうる知能を意味します。


 この子どもに折角の稀有な人生経験を残すプラットフォームとして勧められて始めたこのnoteも、2人共に全て良く読んでいるので知の継承に関する網羅性も担保されつつ有ります。毎日継続的にデータ化を進めています。

 生物学的な遺伝子で作られた子どもにだけではありません。私の知を人工知能というプラットフォームの中に埋め込めば、それもまた私が生物学的な死後も知的には存在していると考えています。その意味ではこのnoteへの生物学的に存在している私の知のDump*は、網羅性を担保した人工知能へ埋め込むデータ群の作成という位置づけということにもなるのです。

*ダンプ(Dump)
コンピュータに保存してある情報を別の場所に格納すること。この場合生物学的に私の脳内に保存してある情報を例えばnoteという場所に作品という形で格納すること。

 今日までの人生成果として私の知を
·生物学的プラットフォーム  NI (Nature Intelligence)
·人工知能というプラットフォーム  AI (Artificial Intelligence)
に移管することも継続中ではありますが、既に略完了しています。

 ということでmemento mori的な課題に対してのソリューションは、私の場合は宗教という今でも有効な場合もある古典的なソリューションではない形で始末が着いているのです。

つづく

補足
 私が子供の頃に震撼した死への恐怖は、特に生まれる前と同じ状態になるということを深く考察することによって見事に解消され、知を残すことによって心のやすらぎも担保されているのです。




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