出席を取らない大学 2つの大学に在籍 (豊かでおおらかな世界での学生時代)~当たり前過ぎて意識しなくなっていること
私は2つの大学に在席しました。
1つ目の大学ではは電子工学を学びました。2つ目の大学では、金属工学を学びました。
電子工学を学んだ大学は、自宅から片道2時間半通学に時間を要しました。2時間の電車移動と30分の徒歩移動でした。
その大学はとても綺麗で、広大なキャンパスを持っていました。敷地内には滑走路も有り、ある意味繁華街などからは遥かに離れて居るので、落ち着いて学究生活を楽しめる環境でした。
講義もきっちりしていて、徹底的に出欠を管理していました。ある意味、高校生活の延長という雰囲気でした。
小学生の頃から背伸びして電子工学を学び、大出力のオーディオアンプを自作する程でしたので、網羅的に基礎を学んで中退しました。
正直通学もキツかったのも理由かなぁ。
一方、金属工学を学んだ大学は、自宅から40分程度でした。電車25分、徒歩15分といったところでしょうか。その大学も、都心なので一部公道で学部ごとに分断されているものの広大な敷地があり、繁華街も徒歩圏内にありました。
通学は、自動車免許や二輪車免許を取得していたので運転が楽しく、初めの夏休み頃から公共機関から自家用車通学にしました。またま隣接していた広大な団地群が、再開発される過渡期で、空き地に駐車できたのも幸いしました。再開発が進みその空き地が利用できなくなると、二輪車のみ構内の駐輪場に駐車できたので、二輪車で通学しました。ちなみにその大学の附属高校の一部は、高校でも二輪車通学できたそうです。この大学も敷地内に広大な実験施設棟などが有り、都内とは思えないほど充実した研究施設が有りました。
講義は、レベルが高いのですが、出欠は凡そ取らず、とる時は、紙がまわってきて自主的に記名するだけでした。レポート提出と期末試験、それもどの科目も統一されたB4の横書きのレポート用紙での筆記試験の結果のみで単位が与えられました。とてもおおらかな時代で、前期満点だった優秀な学生が、試験の解答に校歌を書いて単位を貰えたという今では有り得ない話も有りました。
私もドイツ語でやってしまいました。前期は初恋という文学作品を扱ったのですが、難解との学生の批判が有ったそうです。そこで教授の意に反して相対的に易しいカリキュラムに変更になりました。私は文学作品の続きを学びたかったので残念でした。授業は、前期同様しっかり主席しましまた。そして後期の試験は、答案用紙に「私は、初恋の続きが学びたかった。」とだけ書いて、直ぐに教室を出ました。前期は、満点を取って秀(A)だったのですが、後期は、そのためか、流石に優(B)でした。(笑)
電子工学を学んだ大学での単位の一部が単位としてそのまま認められたので、専門科目や大学院の科目なども余裕を持って学べました。第二外国語も単位は足りていたので、上述の様に一寸試験で遊べました。
特に研究では表面物理学専攻の研究室を選び、シリコンの表面状態の研究をして卒業。教授がスタンフォード大学で研究していたこともあり、卒論は英文で仕上げました。
当時の就職活動はのどかで、採用枠が学生に配られ、マスター(大学院生)が先に決め、残りを学部生が話し合いで決めます。鉄鋼会社は人気で、順当にマスターがほぼ枠を埋めてしまっていました。たまたま人気の鉄鋼会社で、しかも狙っていた東京が本社の会社の枠がたった一つ空いていました。
なんと就職先をじゃんけんで決める。
(「人間到る処青山有り」ですかね。)
数人でじゃんけんで決めたのですが、勝って見事希望の鉄鋼会社にピンポイントで就職できました。
(余談:川崎と福山に主な製鉄所が有ったのですが、順当に川崎の製鉄所内の鉄鋼研究所で界面解析の研究から社会人スタートも切れました。ホントに運が良い人生でした。しかも今の吾妹にもその研究所で出会えました。)
この大学の恐るべきおおらかさが、大好きでした。
そして順当に鉄鋼会社の研究所の界面解析研究部に配属されるたのですが、数年後に面白いことに鉄鋼会社の多角化で、電子部品、半導体の商品開発に進むことになります。
人生、実に楽しい。
蛇足
豊かでおおらかな世界での学生時代でした。