雑感記録(105)
【無駄な思考などない】
昨日、Netflixで『パプリカ』を久々に見た。筒井康隆の原作である訳だが、何度見てもあの世界観を如何にして言語で表現出来るのは凄いなといつも思われて仕方がない。しかし、あそこまで完成されてしまっていると原作を読もうという気すら起きない。それが良いか悪いかは置いておくとして、とにかく『パプリカ』は面白いものがある。
僕は『パプリカ』を見るたびに平沢進の音楽にいつもやられてしまう。エンディング曲の『白虎野の娘』は圧巻だ。どこか遠くへ連れていかれるような曲で、『パプリカ』に非常に合っている。何というか、あの世界観が曲そのものを聞くだけで何となく想像できてしまう。映画を見た人はなおのこと鮮明に場面が解雇される。
ところで、平沢進という音楽家を知っているだろうか。テクノ界隈では「師匠」と呼ばれるぐらいの人であるから、知っている人は知っているだろう。僕は実はあまり知らない。ハッキリ言って「『パプリカ』の歌を歌ってる人でしょ。」という認識でしかない。あまり聞いたことないなと思いこれを機に色々と聞いてみることにした。
海外では割と評価が高いらしく、アルバム『救済の技法』は結構凄いらしい。僕も本当に昨日知ったばかりだから語れることは殆どないというのが現状な訳だが。しかし、そのアルバムの中で1曲だけ「こら、すげえ…」と思わずなってしまった曲があった。
タイトルは「庭師KING」という何だかよく分からないタイトルだが、聞いてみると不思議と引き込まれてしまった。どこかタイトルとは似つかわしい程に神聖さみたいなものを感じてしまった。
これを聞いた衝撃が凄い。こうして言葉で書いてみると何だか不思議な感じがするのだが、書いてみることで何となく僕が感じた神聖さというか、そういったものが何となくではあるけれども感じれた気がした。
歌詞を見ていると何だか宗教じみた言葉が羅列されるような印象だ。例えば最初の部分なんかはモーセ(『旧約聖書』)を彷彿とさせるものがあるし、2つ目の歌詞の「三界」なんてのは曲では「サンカイ」と歌っている訳だが、「サンガイ」と言えば仏教界に於ける輪廻の話になる訳だ。3つめも「功徳」というのがそもそも仏教用語あるいはキリスト教の用語である訳で。そう考えると「二文字の言葉」とは愛(アイ)か?…とか。
そう考えてみると、「庭師」とは何ぞ?となってくるが、「庭」を仮に僕らが生きている「世界」と捉えるならば、「庭師」は「世界」を創る人になる訳だ。終局、辿り着くのは「神」であるのではないか。『庭師KING』とは畢竟するに「神」のことなのではないのか?
と、身も蓋もないことを考え始めている。しかし、こういう身も蓋もないことを考えるのは愉しい。別に考えたって何の役にも立たないのだけれども、こういうことを考える時間は僕にとっては至福な時間だ。無駄な思考というのは僕は大好きだ。
考えること自体に意味があるかと言われると、多分意味なんてない。むしろそもそも考えることなんて時間の無駄かもしれない。何も考えずに行動した方が早く動けるし、そこから学んでいけばいいことも十分にある。ただ、僕は考えるその無駄な時間が愉しくて仕方がない。しかも、何の役にも立たないことについて考えることが大好きだ。
凄く今から自分でも恐ろしいことを言うが、芸術なんて結局のところ今の社会に於いて考えることなんて必要じゃない。社会が必要としていない。社会が「そんな無駄なもんにかかずらっているなら、働け、金稼げ。」という風に僕らに要請しているとしか思えない。資本主義という言葉で片付けてしまうのは無責任だが、資本主義というのは恐ろしい。
余暇というのも結局「労働に向けた準備期間」な訳でしょ。余暇という名ばかりの余暇であって。そういったものから抜け出すために芸術は必要であり、何の役にも立たないことについて無駄に考えることが本当の意味での休日の過ごし方なのではないかと思われて仕方がない。
最近では効率が重視される世の中である。僕はそれにずっと抗いたいと思っている。その効率に絡めとられてしまった瞬間に「考える」という行為そのものを捨て去ってしまうような気がしてならない。無論、効率化するために「考える」ことをするかもしれないが、それで効率化が図れればそれ以上に僕らの「考える」ことは不要となる訳だ。
考え続けることは難しい。ただ闇雲に「なんで?」「どうして?」とやってはいけない。それは只の始まりでキッカケに過ぎない。解答を得れば終りだからだ。その先の「考える」行為までたどり着かずに終わる可能性が多い。しかし、それはそれでいい。解答を得て満足するなら、結局そこまでのものだったという訳だから。
僕はいつも後輩に仕事のことで「これって何でこうなるんですか?」と聞かれた時に意地悪をする。必ず「何でだと思う?」と聞き返すからだ。そこである程度どう考えているかを聞き出す。大抵、「分からないから聞いてるんです」と言われるのがオチだがそこで「こう思うんですけど」と返してくれる後輩はやはり面白い。
というよりも、こういう風に答えてくれる方が僕も勉強になる。気付かされることが多かったりするのだ。そりゃ勿論、分からないから聞いているのは百も承知な訳であって。……何だかこう書いていると僕はただ意地悪な先輩をしているだけにしか見えない。
ただ1つ言えることは、仕事をしているとどうも「考える」という行為が奪われてしまうものだと思っている。仕事をしているとその仕事をすること=考えることというような思い違いをしてしまう。これは僕もそうだ。仕事してるんだから仕事のことについて考えてるのは当たり前じゃないか!というまずそこが既におかしい。それはまやかしに過ぎない。そこに居るから考えているというのは違うはずだ。
僕は過去に1度お客さんに「あなたの考えを聞かせて欲しい」と言われたことがある。「会社とか仕事とかそういうのは置いておくとして、あなたの考えが聞きたい」と。僕はこれを聞かれた時に答えたが、結局それは前提として「仕事」というのが刷り込まれていて、仕事で経験したものを通り一辺倒に答えることしか出来なかった。あの消化不良感ったら溜まったもんじゃない。
仕事をする上で、最近大事だなと思うのは「斜に構える」ことなのではないかなと思えて仕方がない。
以前こんな記録を付けたが、無論こういった弊害もある。ただ、少し「仕事」というものにある種の反発意識を持っていると色々と考えるポイントというのは炙り出されてくるものである。そのポイントを「考える」無駄な時間こそ何か自身を変え得る可能性を秘めている訳だし、現に僕はそれで職場離脱を企てている訳だが…。
とにかく、またダラダラと書いてしまった訳だが、要するにここまでで言いたいことは役に立たないこと、意味のないことについて考える無駄な時間は非常に重要だと思うよっていうこと。
考え続けることは難しいが、考え続けることは愉しい。それが社会的に無意味なものであっても、自分自身で意味を持てればそれでいいんじゃない?っていうそんな話。
よしなに。
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