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雑感記録(274)

【駄文の円環part8】


最近、自分自身が何をしたいかよく分からなくなる瞬間がある。人はそれを「アイデンティティ・クライシス」と名付けてみたり、あるいは精神分析的に「それはうつ病の気がある」的な評定を下すことがある。ベケット『名づけえぬもの』というタイトルが一瞬頭を過る。でも、過っただけで別にそれについて語ろうという気は全く以てない。

ベケットと言うと、僕は自身の退院直後の記憶が蘇る。それは退院後に初めて読んだ小説がベケット『どんなふう』だったからだ。あれは身体が弱っている僕にとっては非常に苦しい読書だった。体力が持たないのだから、実は未だに全て読めていない訳である。それに実家に置いてきてしまっているのですぐに読めない。こういう時、僕は物凄くもどかしく感じてしまう。

こういうことが東京に出てきてから頻繁に発生する。

様々な本を読む中で、その本のタイトルやそれについて語られる。それを僕は読みふと「そういえば、これ持っているな」と本棚に向かうのだが…。大概、読みたいと思っている本ほどなく、それは実家に置いてきてしまっているのである。悔しい。今この瞬間に読みたいのにも関わらず、それが読めないという苦痛は僕にとっては最悪な事態である。「我慢すればいいだけの話じゃん」と言われるかもしれないが、好きなことを我慢してどうする。余計にストレスが溜まるじゃないか。

だが、ちょっと冷静になってみて、「好きなことって疲れるんだよな」とこれまた頭の中で湧き出た。それで昨日の記録が僕にはパッと思い出されるのである。

自画自賛するが、我ながら結構頑張って書いた。いや、「頑張って」と書いてしまう方が何だかおかしな話だ。好きなことについてひたすら語っているのだから。書いている最中は集中している訳だし、何だか言葉が勝手に湧いて出てくるのでそれを何とか繋げていった。それだけの話である。それ以上でも以下でもない。この記録の裏話をすれば、と仰々しく書き始めたが全く以て大した話ではない。朝起きて部屋掃除を済ませ、朝の8:00から延々と書き続け、気が付いたら夕方17:30を回っていた。

でも、久々に「無我夢中」というのだろうか、この年齢になって時間を忘却して取り組むことなど滅多にない訳で、凄く愉しかった。やはり、好きなものを追求する時間というのはどれだけ悩ましいことがあっても、それを愉しむことが出来る装置がある。人間という生き物は改めて不思議だなと感じさせられる。


そういえば、この間、YouTubeのshort動画で「人間の体感時間と外界の時間には相当な隔たりがあり、人間の体感時間という観点から換算すると19歳で人生の半分は終わっている」ということを言っていた。別にそれの根拠がどうでとか、ソースはどこでという実にくだらぬ議論はどうでも良い。それはどこかの先生にでも任せておけばいい。僕は純粋な気持ちで「へぇ~、そうなんだ」とスマホに阿保面をさらしていた。

正直、ここ最近だが、こういう時間の手の問題について考えることから逃げている。一時期、ベルグソンを読んでみたりとかした訳だけれども、あんまりピンと来なかった。色々と読み漁って、結局僕が思ったことは1つである。至極単純な話である。

人や物は皆、死に向かって進んでいる。

何を当たり前なことを勿体ぶって書いてるんだか…と思われるが、だがちゃんとそれを受け止めることが出来るのかということとなると話はまた別の問題ではないか。この「生と死」を巡る問題というのはいつも面倒でややこしい。だが、色々考えたって人間いつかは土に還る。「19歳で人生の半分が過ぎてしまう」というのは何だか生にしがみついているような印象を受けてしまう。僕は何だかそういうのが嫌だ。

何だか、宗教じみた話になってきてしまって嫌だなぁ…。

それに、何だか最初に精神分析とかいうワードを出したのが、結局ここでの「エロス」と「タナトス」の問題に繋げようとしている自分自身に辟易としている。まず以て最近、僕は『フロイト著作集第6巻』を購入し、『快楽原則の彼岸』について未だ読めていないのに、僕が何を語れるというのだろうか!?付け焼刃で何とかなるようなものでもない訳だ。何だか僕は僕自身のこうして打っている言葉に統御されているような気がしてならない。


そういえば、最近ゲンロンの著作を読むのにハマっている。

最初は東浩紀・石田英敬『新記号論』から始まり、東浩紀『新対話篇』、そして今は『現代日本の批評』の2巻を読んでいる。昨日、ゴジラについて書き終わった後に、『現代日本の批評1975年-2001年』については読み終えた。個人的に物凄く面白くて、気が付いたらこれまた徹夜で読んでしまった。ひたすら眠くて仕方がない。そのため、寝ないようにこうして文章を書いている訳だが…。

僕はこの際だから言ってしまうけれども、大学の時に学んで来たそういった理論の殆どは所謂、蓮實ー柄谷ラインに居た人に洗脳されていたのね。というよりも、されてい「た」ではなくて、現にされてい「る」のだ。僕はどちらかと言うと柄谷行人の方がまだ好きだった。その洗脳が未だに解け切れていない。事実、僕の過去の記録では度々柄谷行人を称揚するような記録も散見される。

だから、僕は文学という点に於いて、実は視野狭窄なんだ。

僕は最近の小説が読めないと言っているけれども、それもその実、自分の中でどことなく基準みたいなものがある。それが邪魔をしてフラットに作品を捉えることが出来ない。過去では散々、端的に言ってしまうならば「技術がねえ」と言っていて少し距離を置いていたが、僕はただ受け入れたくなかったというそれだけに過ぎない子供的な態度だったとこれら『現代日本の批評』を読んで痛感する。

僕がやいのやいの書いていることは唯の視野狭窄の結果としてであり、大したことは書いていない。だが、これは自分でも思うのだが、それを「っぽいもの」しか書いてないとして開き直っている部分は本当に質が悪い。ということを堂々と書いている自分も気持ちが悪い。悪循環である。

だが、その一方で、「書かない事には始まらない」と僕は思っているので恐らく書き続ける訳だ。とにかく僕は自分の為に書ければそれでいい。だったらnoteじゃなくてもいいじゃないというごもっともな指摘は置いておくとして…。と書いて僕も現代人なんだなと思う。承認欲求。誰かに承認されたいということなんだなと思う。書くという1つのごく個人的な営みをわざわざ、SNSという媒体を通じて書き殴る。見も知らない大多数の人に不可避的…という言葉を使ってしまったが、それは卑怯だ。

僕がSNSという場を選択したという時点で、既にそれが「承認されたい」ということの証左であり、幾ら「自分の為にやっているんです」と虚勢を張ろうが、どう頑張ったってそれは無理な話である。なぜならば、開かれているからである。良い意味でも悪い意味でも開かれているからである。ちょうど今日の朝ぐらいに、僕が読み始めた部分が「ブログ」と批評の関係性が描かれ始める2冊目。早く自宅に戻って続きが読みたい。

厳密に言えば、とこれから元も子もない話をするが、僕は今、この文章を「書いている」のではなくて「打っている」。別に元々ある原稿を打ち直しているという訳ではなくて、画面と向き合いながらただ、ひたすらにローマ字入力をしているに過ぎない。果たしてこの行為そのものを「書く」と呼称して良いのだろうか。あるいはスマホの入力にも同じことが言えるだろう。

最近、何だか本当に悩ましい。


こうして、ここまで書いたことをざっと見て、段々と僕は僕自身のことを卑下しているような印象を受ける。事実としてそんな感じがする。うん、卑下しているんだろうな…。というよりも、媚びを売っている文章のような気がする。恐らくだけれども、こういう女々しい文章を書くようになった原因は単純に「上には上がいる」ということを知ってしまったということと、ネットではやはり叩かれることが怖いのかもしれない。僕はそれを想像力の問題にすり替えようとしている。自分自身で自分自身にそんな印象を持ってしまう。

「僕が書くことは出鱈目だ」というのは正しく衝突を避けるための手段というか、安牌な手だ。自分も傷つかなければ、相手もどことなく傷つけないような。上手く丸め込もうとする。僕として、僕の書いていることは大概出鱈目であるということは事実ではある訳だが、それでも自分の書いたことには自信がある。いや、自信があるというより純粋に自分の書いた文章が好きなんだ。こういう女々しい文章を含めて。

僕は迎合したくないとも思うし、こういう場を利用しているのであれば、それは考えなければならない問題だし。まず以て手前の段階で僕は躓いているような印象がある。僕は僕自身を超克する必要があるのか、はたまたないのか。何というか、『現代日本の批評』を読んでからと言うもの、僕は僕自身に於ける「書く」という行為に懐疑的になりつつある。

しかし、先にも書いたが「書かなければ何も始まらない」というのはある。

1つ確実に言えることは、やはり書くことが好きということではある。例えそれがどの文章であろうとも、書くこと自体、文章を考えること自体は好きなのだ。それはどうしても譲れない。自分の書いた文章は自分が1番好きである。好きなことを追求するというのはある意味で棘の道だ。当然に苦しいこともあるし、悔しいことだってある。時間が掛かって結果が出ないで終わるなんてこともあるんじゃないかな。

でも、好きで居続ける為には技術も必要なんだよな…。


眠い。ただただ眠い。

自己憐憫に溢れた文章だ。鼻で笑ってくれ。

よしなに。

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