雑感記録(198)
【君はさわらなくていい…】
ふと、昨日から横光利一の短編集が読みたくなった。
横光利一は元々、個人的に好きな作家である。大学3年の時には我ながら稚拙なものではあったが『機械』について屋敷の死とマルクス主義を無理矢理接続し、昭和知識人の問題等について論じた。しかし、たったそれきりである。それ以降、別に彼のことを論じたいというようにはならなかった。ただ、純粋に、個人的に彼の作品が好きになったという事だけは紛れもない事実である。
この短編集を僕は保有している。早速仕事から帰って本棚を探すが見当たらない。出てきたのは、ほるぷ出版から出ている「名著復刻シリーズ」の『機械』だけであった。無論、それでも良かったのだが、個人的に『春は馬車に乗って』と『蠅』を読みたかった。まあ、こういう時はどう頑張っても読めないものは読めないのだから仕方がない。諦めることにした。
本棚を漁っていると、どうも愉しくっていけない。時間を忘れて「どんな本があったっけ?」と出してはパラパラ、出してはパラパラ…を延々と繰り返す。折角「蔵書目録」なるものを製作しているんだから、それで見ればいいだけの話なのだ。しかし、実物を手に取ってみるということと、パソコン上の画面でただタイトルの字面を追うのとではその愉しさは全く以て異なる訳である。タイトルだけでは内容は想像するに難い。
岩波文庫シリーズが陳列されている所を弄っている時、ふと近松秋江の短編集を手に取る。かなり前に出版されているので見た目はボロボロ。まあ古本だからとしか言いようがないのだけれども、味があってそれもまたそれで乙なものである。
実はこれをどこで購入したか覚えている。案外、こういう所の記憶力は良くて、話の内容はあまり覚えていないけれども、どうやってこの本を手に入れたかというのはよく覚えている。これは下北沢の古書ビビビで購入したのである。その時に一緒に購入した本も記憶している。ルナールの『博物誌』である(確か、岩波文庫じゃなくて新潮文庫から出ているやつだったと記憶している)。今にも雪が降りそうな寒い日であったことをよく覚えている。
何だか懐かしいなと思い、思わず読み始める。タイトルが『別れたる妻に送る手紙』である。何とも仰々しい。散らかした本を拾い上げ、本棚に戻して身支度を整えた。「そういえば夜飯、まだだったな」と思い適当に料理をし食べた後でじっくり読むことにした。
先に近松秋江について簡単に触れておこう。
近松秋江は不思議な学歴で、一応東京専門学校(現・早稲田大学)英文科を卒業しているのだが、卒業するまでに慶應義塾(現・慶應義塾大学)、国民英学会、二松学舎(現・二松学舎大学)に在籍していたらしい。また卒業後は博文館(現・博文館新社)、早稲田文学編集部、読売新聞社、中央公論社と転々としていく。しかし、どれも長続きしない。謂わば「フーテン」であったらしい。その後、結婚し小間物店を開店するが失敗。結局、奥さんには愛想を付かれて出て行かれる。
近松秋江的には「フーテン」というよりも、文学で一発当ててやろう!みたいな心持ちがあったらしく、ちょこちょこ寄稿はしていたらしい。ん、それこそ「フーテン」なんじゃないか?…まあ、いいや。これは同郷で読売新聞社に居た正宗白鳥の助けによるところが大きいそうだ。
それで『別れたる妻に送る手紙』の所へ無理矢理にここから接続しようと思うのだけれども、実は近松秋江のこれらの経験そのものが小説になる訳だ。文学で飯を食べていきたい。だけれども中々売れない、金が手に入らない。真面目に働く素振りもない。妻は愛想を尽かして出ていく。それだけの話である。と今僕はここで「それだけの話である」と書いてしまった訳だが、言ってしまえば「文壇あるある」みたいな話なのだ。文学の世界じゃまあ日常茶飯事みたいな感じである。そのために「それだけ」という表現を使用したと一応に説明しておく。
この『別れたる妻に送る手紙』には一応、続編とされる『執着』『疑惑』『疑惑続編』として発表している。しかし、自分自身のネタでよくもまあここまで書けるものだなと感心してしまう。ジャンルで言えば「私小説」というような形にはなる訳だ。況してや「手紙」という文体を取っているから余計にクローズドな世界での話となる訳だ。
しかし、読んでいると所々「むむむ」となるところが多々あった。今日はその感想だけべらべら語り散らかして跡を濁して終われればと思っている。
まず以て、『別れたる妻に送る手紙』を読んで全体として感じたことは、最初の方は面白くてそれなりに読めるが、段々と話が進んでいくごとに退屈になってしまった。何というか、間延びしてしまっているような気がしてしまった。こういった「私小説」ともなると、ある種限界がある訳だと思う。これは簡単な話で、自分自身のことを小説にするのだから自分自身にまず出来事がないと成立しない。まあ、これは言うまでもないことだ。
問題はそこからで、じゃあ、自分自身のことを書けなくなったらどうするかという部分とどう向き合うのかが重要になってくる。例えば、書く題材がないという事で自分の姪っ子を襲って小説にしてしまう島崎藤村みたいな人間もいる訳だ。ただ、そんな簡単に自分の人生にドデカい何かをすぐに起こすことなんて不可能である。では小説の続きは?……そんなのは決まっていて「私小説」なんだから、あくまで「自身のありのまま」を書く。それが詰まらないことであろうとなかろうと。
『別れたる妻に送る手紙』なぞもご多聞に漏れずこういった様相を呈している。小説の序盤は自身の妻に「あたしが出ていくか、あんたが出ていくか」みたいなところから始まり、結局妻が出ていくことになる。その後、主人公である雪岡は芸者のお宮に恋をしていく過程が描かれる。そこまでの心的な動きとかは個人的によく書けてると思ったし、矛盾を抱えながらも好きな人に突っ走る感覚は分からんでもないなと思ってみたり。でも、パタリと突然に面白みが感じられなくなる瞬間があった。
それが露骨な風景描写をしてからである。
そもそも描写というものは、これは僕個人が考えていることなのだけれども、小説に必須の条件というか要素だと感じている。そこにこそ僕らが考え得る何かが潜んでいるのではないかと思われる。それは描写というのは先日の記録で言えば「世界に敗北したことを認める人間が世界をどう定義するか、どう表現していくか」ということなのだと思う。ここにこそ小説の深みや面白さがあるように思われる。
しかしだ、どうも近松秋江の先の引用を読んで「うーむ」みたいな感じがしてしまった。自分でも何でだろうなと思ってみたりしたのだが、良い答えは実はまだ見つかっていない。そこで今日は何となくの手触りだけ書き残すことにしようと思う。
まず以て、これが「私小説」であるという前提があるということが邪魔をしている。加えて一応、この小説はあくまで「妻に対して送った手紙」である。仮に、僕には妻など居た試しはないが、別れた妻に対してどんな手紙を送るだろうと考えてみた訳だ。そうすると、妻に対しての何某かの感情なりが表現されていいはずだと思った訳だ。例えば「俺はお前ともっと一緒に居たかった」とか「お前のここが嫌いだった」とか、「離れてみるとやっぱり寂しい」とか。そういうことを書くような気がする。
しかし、どうだろう。この小説は何だか、「別にお前はどうでも良くて…俺の話をとにかく聞けよ」という感じがする。まあ、別れた人に対して抱く感情なぞというものは人それぞれで一概に「こうだろ!」と僕が断定できた義理は全く以て、1ミリもないのだが、あまりにも寂しいなあと思う。これはあくまで僕の感想。こういう人が居ても面白いとは思うけどね(他人事だからね)。
だが、先にも書いたが手紙という形で以て書かれる以上は、謂わばクローズドな世界、主人公である雪岡と別れた妻のお雪との2人の中の世界で展開される。別の第三者が読むということは元来想定されていない文章な訳である。ところが、この描写を入れてしまったことで、その手紙内に書かれていることが不可避的に「第三者に読まれる」という事が意識されるようになってしまった気がするのだ。つまりは、この描写以前は2人の世界、「雪岡-お雪」という世界の構図で語られていたものが、突然として別の世界との接触を図り始めたのである。
これでは手紙という形で書く意味があるのか?
と僕は少なくとも感じてしまい、そこにずっと違和感を感じながらこの引用文以降を読み進めて言ったわけだが、この描写を機に突然、誰かを意識したような文章になっているような気がしてしまって気持ち悪くなってしまったのである。
何だか僕はこの格好つけた文章がとても気に食わなくて、どうも文章としての逼迫感も無ければ、訴えかけてくるようなものは何も無くて。気持ちが一向に伝わってこない。これは作品全体を通しても言えることだ。自分がこうしました、ああしました、こう思いましたというものを高尚化しただけ。先日の記録を借りて言うならば「小学生の作文を高尚にしただけ」という印象を受けてしまったのだ。
それで、こういったことを考えるときに時代性(あんまり僕はこうやって考えるのは好きではないのだけれども…)、発表された当時のことを少しばかし考えると何となくだがこういう書き方をするのも合点がいく。つまりは、自然主義文学が勃興しそれが盛り上がっている最中に出された小説である。確か1910年(明治43年)に発表されたんじゃなかったかな?そう考えるとまあ、ある程度はその書き方に於いては納得せざるを得るような…得ないような…?
これも過去に小栗風葉の覚書で簡単に、島村抱月だったり田山花袋の『露骨なる描写』とかを引き合いに出して「自然主義文学ってこんな種類が合って…云々」とか書いているので細かいことはそれを見てもらえれば分かるのだけれども、要するにありのままあったことを書いているだけの文章な訳だ。装飾したような文章はなく、「俺はお前と別れてここに通った」「お宮という芸者とこんなやり取りしていた」とかがただ淡々と描かれる。
しかも、再三に渡って書くのだが、あくまでこれは「手紙」という形式で書かれているのだ。そうすると、「相手に何かを伝える」ということがある意味では主眼に置かれる訳で、ややこしい表現などは避けられるはずである(少なくとも僕は避けたいけれどもという願望もある)。装飾をせずありのままに書くという文章の構造と「手紙」という構造の親和性があるのではないだろうかと僕には思われて仕方がない。
しかし、そこに突如として風景描写を介入させることで、「これは手紙ではない」というようなことを主張しているかのように僕には感じられたのである。どっちつかずというか、僕はハッキリしてほしかったなと個人的には思っているのである。何というか凄く中途半端だなと僕には思えて仕方がなかった。
これまで書いたことを纏める。
まず以て、僕がこの作品に於いて読み進めるごとに退屈になって行ったのには、「手紙」という形態をとりながらも他人事のように語られるからであるということなのかもしれない。それが僕の中で決定的だと思われたのが「露骨な風景描写」が出てきたことによるものであるのではないかと推測される。当初はお雪のことを「お前」と呼びかけながら読まれることを想定して書かれているのに、徐々に徐々にお雪の存在が薄くなっている。
手紙という形態を取っているということは、お雪と雪岡とのクローズドな関係性の中で紡がれる言葉であったはずのものが、欲望を持ち風景描写に走ってしまったことに原因があるのではないかと僕は思う。無論、僕は先にも書いたが「描写なきものは小説ではない」と考える人間である故、一概にこれをおおっぴっらに否定できる訳ではないが、露骨にお雪を引き剥がそうとするその姿勢が何だかよく思えなかったという話である。
また、自然主義文学というものが文壇を席巻する中で親和性のある手紙という形態を取ったにも関わらず、そういう様な、言ってしまえば余計なところがちょこちょこ挟まれるのが何だか気に喰わないという話な訳である。要は、自分のあんまり良くない行いを描写によって正当化しようとしている所が僕はこの小説で1番気に喰わない所だ(良くない行いかどうかは人によって異なるので、これはあくまで僕の恣意的な感想である)。
そういえば、この記録を書きながら僕はAnalogfishの『さわらないでいい』がパッと頭に思い浮かぶ。ぜひ聞いてみて欲しい。
読み終えて、僕はふと思った。「人間とはどうも面倒な生物だな」と思われて仕方がない。「フーテン」になりたい気持ちも分かるし、でも自分の好きな人を幸せにしたい気持ちも分かる。自分だったらどっちに舵を切るだろう。難しいところだなと僕は感じた。
うーむ…女心というのはいつ何時でも難しい…。
よしなに。