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雑感記録(356)

【惰眠貪郎になりたい】


生きていることは疲れる。生きていればとかく様々なことが身に降りかかって、良い事も悪い事も様々に起きる。そういう波の中で上手い具合にゆらりゆらりゆったり揺られながら、時にはバッシャンバッシャンと荒波に揉まれながら前に進んでいく。そして前進しているのか、後退しているのか分からなくなる瞬間がある。どこへ向かっているのか分からない。しかし、生きているとは大概こんなものである。所詮28年という短い人生しか生きていない訳だが、そんなことを昼休み、タバコを蒸かしながら考えてしまう。

「何故、人間は働くのだろうか」という根本的な思想は、僕からすると「何故人間は動きたがるのだろうか」と似ているような気がしてならないのである。僕は散々書き散らしているが、動くことが苦手である。出来ることなら自室に籠って、ゆっくり、のんびり、ただ寝転がっていたい。ゆっくり本を読んで、好きな映画を見て、散歩に行って、日光を浴びて…。そんな日々を送りたいと毎日のように考えてしまう。

タバコを蒸かしながら遠目に歩く人々の群れを眺める。神保町という街は偉く奇妙な街だなと思う瞬間がある。千代田区に位置しているので、都心である。何なら東京駅が近くに在り、ビジネス街の中にある場所だ。無論、お昼になるとスーツを着た人々やビジネスカジュアルの人々が闊歩している。しかし、その間隙に異国情緒あふれる空気が漂ってみたり、おじいさんおばあさんが歩いていたり、若いキャピキャピした僕の大嫌いな部類の大学生が歩道を占領してみたり…。様々なものが集約していると思う時がある。

この「思う時がある」と言うのは、大学が近くに2つほどある訳で。大学生が夏休みや春休みになると殆ど人は不在になる。そういう意味で「思う時がある」と書いた。僕は出来ることならなるべく居ないで欲しいなと日々思いながら毎日昼休みに古本を漁る。狭い店内でああも邪魔されると溜まったものでは無い…と書いておきながら、はたと「いや、自分も学生の頃そうだったじゃねえか」と恥ずかしくなってくる。これこそ正しく「自分のことを棚にあげといて偉そうに言う奴」の紛れもない典型である。こんな人間にはなるな。

思い返してみると、これも何度も書いて本当に恐縮なんだが、大学時代はやっぱり色々と恵まれていたんだなと思う。特に環境と出会った人たちには本当に恵まれていたと今になって感じる。こういうのは悔しいもので、その当時は何となく「いいな」と思っているだけなのに、離れて年を重ねるごとにその重みが分かるというのは複雑だ。それは今更何を言ってもその在りし日に戻れる訳ではなく、ただ回顧的にしか語ることが出来ない領域だからである。タイムマシンがあれば別だが、それに手を出したらいよいよ人間の感性の死が現実のものとなるだろう。

そう言えば、ここまで書いて僕は過去に保坂和志の『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』というエッセーを引き合いにだして、所謂「プー太郎」について書いたことがある。僕がこの記録で挙げている「惰眠貪郎」も言ってしまえば同じである。ということは、僕は過去に書いたことと同じようなことを再び書こうとしている訳だ。とこれを書いている時に、先日彼女と話していたことが思い出された。しかし、これが不思議で何の話題だったか正確に思い出せない。忘れっぽいとか、そんな話をしていた気がする。

「同じことでも、何回でも話せばいいんだよね。」

この言葉が鮮烈に残っている。現に僕はこうして同じことを何回も言ったり書いたりしているので、「同じことを言わすな!」という大仰なことは言えないし、言う資格もない。それでこれを書きながらまたふと、この間何回目か分からない、ル・クレジオの『物質的恍惚』を読んだ時の違和感を思い出す。確かに始まりは凄く恰好良いし、「物質的恍惚」と「沈黙」の書き出しが似たような形。そして間に挟まれるのが「無限に中くらいのもの」という作品である。「なるほど、旨いな~」と気付いたのはここ最近で、これまで何度も何度も読んでいるのにも関わらず気が付かないということもある訳だ。

僕は物事を1回で伝えた気になっている人の方が怖いと思う。そもそも人と人のバックグラウンドが違う訳で、言葉だけが共通して使っているからと言って1回で全てが伝わりきるなんてことは不可能に等しい。この「等しい」と言うのは聞き手側の想像力の問題に依拠するからである。例えば、相手が発した言葉から、あるいは言葉の外から想像力を働かせて伝えたいことを想像して考えることが可能であり、当たらずとも遠からずという形で言いたいことが汲み取れるということはあるはずだ。ただ、これは難しいことである。そんな簡単に出来ないからこそあらゆる場所で諍いが発生しているのだ。

僕の記録では頻繁に「想像力」の話をする。くどいなと思う人も居るかもしれないだろうが、これは生きていくうえで何より大切なことだと考えている。言ってしまえば、「想像力」は「考える深さ」である。あらゆる状況、今自分があるいは相手が置かれている状況を目の当たりにして如何に深く考えられるかが想像力である。そして「想像力」というと「ただ耽ってればいいんでしょ」とか「イメジしてみる」とかそんな簡単なことではない。何もなしに果たして僕等は想像することが出来るのだろうか。安易に「想像力」「想像力」、馬鹿の1つ覚えのように「想像力」「想像力」と言っている訳ではない。何もない所から何かが生まれるのは、自分自身の中に何かしらに裏付けられた想像力があるからではないのか。

それには自分自身がこれまで生きてきた環境もあるだろうし、誰と関りをもって生きてきたか、どういうものに触れてきたのかということが蓄積として身体の中に残る。言ってしまえば「教養」である。しかし、これが厄介なもので一朝一夕でどうにかなる代物ではない。これは自分が本を読むから贔屓目に書く訳だけれども、「本を読んで如何に考えるか」ということであると僕は思う。無論、映画や美術作品、絵画とかインスタレーションとか、そういうものだって触れれば考えることだって出来る。ただ、少なくともある画一性を持ちながらも、何千本と刺さる針孔に自分自身の芯を突きさす感じ。それが堪らなく面白いのではないだろうか。

美術などは特に画一性という部分では欠けるかもしれない。僕があまり好きではない言葉を敢えて使うならば、「普遍性に欠ける」ということである。コモンセンス的な部分。つまりは、明文化はされていないけれども「何となくある共通認識」みたいなものを上手い具合に汲み取りつつも、自分のオリジナリティを確立出来るって言う所が僕は好きなんだな。「暗黙の了解」とか言われるやつ。

沈黙。昔何だったか忘れたが、漫画『NARUTO』で「雄弁は銀、沈黙は金」という表現があることを知った。西洋から入ってきた言葉らしいのだが、要するに沈黙すべき時の見極めや、沈黙することの効果を心得ているってことな訳で、何でもかんでもお喋りするってのはよろしくない。ということを表現している訳なんだろう。その通りだと思いつつ、僕は未だに沈黙を上手に使いこなせていない。現にこうして耐えられずに書き出してしまっている訳なのだから、僕は沈黙が苦手なのかもしれない。だが、その効果はよく分かっているつもりである。

とこの「つもりである」というのは中々危険な言葉であるとそう思わないか。「知ったつもり」「分かったつもり」…。それは結局分かっていることにはならない訳で、言ってしまえば知ったかぶり的な態度そのものである。僕が過去の記録で何回も同様の表現をしている訳だが、「浅瀬までしか浸かっていないのに『俺は海を知った!』と豪語する馬鹿」である。「つもり」という言葉は人間をその気にさせてしまうらしい。危険な言葉である。こういう時にはハッキリと「僕は沈黙を知らない」と言い切ってしまう方がよろしいのか。僕には分からない訳だが、ある意味でこういうように曖昧な表現と言うのは日本語の十八番なのかもしれないなと感じることがある。

かと言って、別にだから日本語が悪いんだとかそういうことを言いたい訳では決してない。要は使う側の意識の問題である。どれ程までに言葉に対してアンテナを張っていられるか。言ってしまえば、言葉そのものに対する想像力である。この時にどんな言葉を投げかけるか。あるいはこの時にどんな言葉を書けたら、相手はどんな気持ちになるのか、と言ったことを想像することは非常に重要である。言葉そのものに問題があるというよりも、言葉を使う側に問題があるのではないか。そういうことを最近では考えるようになった。

じゃあ、どうやったら良いのかという話になる。言葉を扱う側のリテラシーみたいなものか。正直、僕にだってどうすりゃいいか分からない。ここまで書いておいて何だが…。ただ、確実に言えることが1つある。それは現在、書店に並んでいる自己啓発本や一部のビジネス書による「考えないでも簡単に成功出来ちゃいそうな本」が売れ続ける限りに於いては、言葉を扱う側のリテラシーなど一向に下がっていく。別に文才があるとかないとかは関係ない。そこにただ純な言葉があるかどうかということである。そしてその見極めを鈍らせるのもそういった類の本であると僕は考えている。何度も書くようだが、僕の目下の敵は自己啓発本と一部のビジネス書である。

「純な言葉」と書いたが、それは一体何なんだという話に当然なるだろう。それは例えば「誰かを誘導しよう」とか「誰かにこうなってもらいたい」「読んでいる読者をコントロールしたい」という言葉ではないということかもしれない。誘惑する言葉とでも言えば良いのか。自分はただ面白いものを書きたい。自分が書きたいことを書いているんだ。という文章は読者としても読んでいて気持ちが良いものである。とは言うものの、これらは綺麗ごとにしか過ぎない訳で、職業作家は本当に書きたくて書いているのか知らない。単純に稼ぐために技術があるだけなのかもしれない。

だが、それでもいいじゃない。というかむしろ凄い。技術で心を掴めるのだから。稼げて技術もあってなんて素晴らしいことじゃないか。と考えるとだ。やはり自己啓発本の類や一部のビジネス書の類は筆力というよりも、コンテンツで勝負するしかないのだから、ある意味で哀しき市場なのかもしれないと思ってみたりする。誰が書くかというファクターのみが独り歩きするのだと思う。如何に内容がクソであっても、それを誰が書いたかという部分だけで「凄い作品だ」と評定される。まあ、もう今はそういう時代なのかもしれないなと思い僕はただ憂うのみである。

と偉そうに書いているが、とかく僕だって特段文章が上手な訳でもないし、何者かでもなく、ただの一般人である。先日の記録でも書いたが、僕は「アマチュア」で十分である。こうして伸び伸び書けるのは幸せである。SNS上だから当然、第三者に見られているという意識はある訳だけれども、それでも文章の善し悪しなんてのは別に迷惑を掛けている訳ではない。僕はこの文章で生計を立てている訳ではないし、販売できるほどの技術力もないのでこうしてダラダラと駄文を重ねに重ねているに過ぎない。ここでは自分が愉しけりゃそれで十分だ。

だからnoteも記事の有料化が出来るようになって、「物は試しで1回やってみようかな」と思ったことがあった。しかし、冷静に考えてみてそもそも僕の文章は僕の為に書かれるものであって、人様にお金を払わせてまで読んでもらう文章じゃない訳だ。こんな詰まらん、何度も何度も同じようなことしか書いていない文章に誰が一体お金を払うというのだろうか。だから僕には記事の有料化などは遠い夢のまた夢の話である。

そして逆を返せば、自身の記事を有料にしようと思えるそのメンタリティには感服する。純粋に僕には出来ないことだから。僕のこのくだらない記録に対して価値を自分自身で付けるのが僕には出来ない。というか、そもそも価値を有料にするか無料にするかっていうことで判断しようとしていること自体が僕には気持ち悪くて仕方がないんだけれども…。とにかくだ。僕には自分自身の記録を有料にするということは出来ない。人様に堂々とお金を払って読んでもらえるほどの技術力と思考力と想像力が僕には欠如している。

そうこう色々と考えていると、僕は意外と面倒くさがりな人間なので、だんだんかったるくなってくる。今もこうして書いている訳だが、時たま書いている途中で「めんどくせぇ~」とか思う事なんて何回あったか分からない。そういう時は大概、これまで書いた記録を全部消して次の日あるいはまたその次の日へというように繰り越していく。別に連載している訳でもないし、自分が書かないからといって誰かに迷惑が掛かることでもないのだ。逆にそれでとやかく言う人が居たらそれはそれで怖い。

僕の究極目標は「惰眠貪郎」である。改名はしない。

とにかくボケっとして暮らしたい。好きな人とただ散歩して、ボケっとして。家帰って映画見たり、本読んだりしてボケっとして。こういう日常を送れたらなと思っている。しかし、どういう訳か、この社会に生きているとそういう人間はどうも冷ややかな目で見られがちである。働かなければ生活できない。そんなことは言われなくても分かってんだよ。それでも、そういうダラっとした生活を志したいと日々考えているのだ。

ちなみに断っておくと、この「惰眠貪郎」と言うのはなにも「だらしがない」ということを指している訳では決してない。僕はだらしがないのは嫌だ。そういう事ではなくて、ただ好きなことを好きなだけやりたい。っていうそれだけの話だ。そういう時間がもっと取れればいいなっていうそれだけの話さね。僕はもっとゆるゆるっと生きたい。

よしなに。

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