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雑感記録(376)

【活動休止だってさ…】


活動休止らしい。僕はこれを12月21日当日に知ったのではなく、UKの運営しているYouTubeチャンネルを視聴して初めて知った。ただ不思議なことに別に何か驚きを以てやって来たかと自分に問うてみれば、「うーん…」という感じがしていた。どことなく「そうか…」と納得している自分も居たような気がしている。「活動休止」という言葉は僕にとってさしてインパクトを与えない、形骸化された言葉として提出される。

そう言えば僕は以前、MOROHAについて熱い(のかどうかは分からんが)気持ちを云々かんぬん何とやら…という感じに書き殴った。多分この時はラカンを読んでいたから、記録の節々に「空のパロール」なんていう言葉が出てくる訳だが、今読み返してみると我ながら片腹痛い。「充溢したパロール」まで…赤面ものである。しかし、書いた当時はそう思って真面目に書いたのだから、それもそれで僕である。『俺が俺で俺だ』である。


MOROHAを知ったのは大学生の頃だ。

大学の友人が「MOROHAがアツイ」と僕に言ってきたのをよく覚えている。あれは…立川駅のことだったと記憶している。立川周辺の古本屋を巡ったような気がする。あれ。違ったかな。それか町田駅だ。今は無き高原書店に行った時だったかな…。中々思い出せない訳だが、その時の言葉の感じとか景色の一場面を鮮明に記憶している。「えぇ、お前まだ聞いてないの?」みたいな感じだった。親切心?だとは思うけれども、何だか僕の心には酷く痛く刺さった。

実際聞いてみると、声の癖が強い。最初に聞いた時は「うわ。しんど。」と思い1曲のみ聞いて早々に諦めた。この曲が巷を一時期賑わした『革命』である。ちなみに、アルバムの『MOROHA BEST~十年再録~』と『MOROHAⅡ』の『革命』では確か最初の歌い出しが異なる。僕が聞いたのは『MOROHAⅡ』の方であると記憶している。多分。にわかなので間違えていたら申し訳ない。

自分の中でかなり衝撃だったことを記憶している。この当時はまだどちらかというとメタルにご執心な時期で、ブラックメタルにドップリ浸かっていた時期でもあった。そう考えてみるとこのタイミングは良かったのかなと思えてくる。ブラックメタルはご存じ(かどうかは一向に知らないけれども)の通り、「何を歌っているかサッパリ分からない」のである。これが英語になれば尚のことである。ちなみに、ブラックメタルの聖地は北欧であると言われており、人気が凄いらしいと噂で聞いたことがある。

僕はこの時だと…そうだな、The Black Dahlia Murderだったり、Cannibal Corpseとか…。ああ、たまにDARK TRANQUILLITYも聞いてたはずだ。まだDARK TRANQUILLITYは聞こえやすいのだが、しかし当然英語であって、意味など聞き取れる訳もなければ理解できる訳もない。ただ音が良くて聞いてただけという、いわば「何となく」で聞いていた。日本語の曲などあまり聞いていなかった時期である。MOROHAは言ってしまえば、僕にとっての言語的荒療治みたいな様相を呈していた。

だから最初は「ウゲェ…」と思いながら聞いていたが、これは説明のしようが全く以てないのだが…、その癖に僕がクセになってしまったのである。何と表現すれば分からないのだが、言葉が言葉として眼前に迫って来る感じ。言葉が物に付与された言葉、記号ではなく、言葉そのものとしてやって来る感じである。これは未だにどう表現したらいいか考えあぐねている訳だが、考えあぐねた所で仕方がない。「その人の気圧のなかでしか/生きられぬ言葉もある」のである。

言いたくない言葉

 心の底に 強い圧力をかけて
 藏ってある言葉
 声に出せば
 たちまち色褪せるだろう

 それによって
 私が立つところのもの
 それによって
 私が生かしめられているところの思念

 人に伝えようとすれば
 あまりに平凡すぎて
 けっして伝わってはゆかないだろう
 その人の気圧のなかでしか
 生きられぬ言葉もある

 一本の蝋燭の様に
 熾烈に燃えろ 燃えつきろ
 自分勝手に
 誰の眼にもふれずに 

茨木のり子「言いたくない言葉」
『現代詩文庫20 茨木のり子詩集』
(思潮社 1969年)P.98

ふと再びこれを引用して、きっとMOROHAは「その人の気圧のなかでしか/生きられぬ言葉」を無理矢理に表現しているのかなと思った。つまりはアフロの中でしか生きられない言葉を、僕等に伝えるという感じなのかな。「藏ってある言葉」を僕等に喰らわせる為に居るような感じである。だから今回の活動休止は「一本の蝋燭」が「熾烈に燃え」「燃えつき」た結果なのではないかと今では思っている。

脱線ついでに、これはまあこじつけみたいなものだ。先日の古本祭りで購入した横尾忠則と河合隼雄の共同編集の岩波から出ている本を読んだ。その本の巻頭は「序」を兼ねた横尾忠則の芸術観の話が書かれるのだが、僕はそれを読んで僕は勝手にMOROHAの姿を重ねた。僕には神秘主義的な考えはないので、横尾忠則の様にスピリチュアルな方向には行けないが、しかし、「身体で表現すること」ということについては同意するものがある。

 本当に人間は複雑怪奇な化物かもしれません。肉体を宿にしている魂のことなど考えるより、唯一信頼できる確かな肉体と歩調を揃えて肉体のおもむくまま生きる方がよっぽど自分に忠実というものですかね。嘘をついたりする心や精神より、嘘をつかない肉体を支えにする方がよっぽど正直な生き方かもしれません。そこで芸術も同じで、肉体に従うのがいちばん健全というわけでしょう。精神が求めているのか肉体が求めているのかによって芸術の方向が分かれます。アイデアや論理や言語が中心の観念的な芸術を基準にしない、肉体を優先する芸術を、ぼくは一日も早く獲得したいと願っています。

横尾忠則「肉体と創造」
河合隼雄・横尾忠則編『現代日本文化論 11芸術と創造』
(岩波書店 1997年)P.9,10

MOROHAの声や言葉にはどことなく「肉体」がつき纏っている気がする。この本を読んで勝手に納得する自分が居たし、実際実感として在ったのでウムウムなるほどと合点がいく点が多かった。「言葉と身体性」、横尾忠則の場合はそれをもっと広げて「芸術と身体性」というような形で書いている訳だが、「身体」というのは個人的に何に於いてもどこかで優位性があるものだと思う。まず自分の身体があってこその精神であるというように僕は思うし、そもそも身体と精神を切り離すという所作自体が西洋的なもので…云々と論じるつもりは毛頭ない。

ただ、ここで書きたかったのは、MOROHAの放つ言葉には身体性があるということである。


とはいえ、手放しに僕がこんなことを書いている訳ではない。これは自分自身の経験に基づくものである。そこに少しばかし触れて行こうと思う。

僕の人生初のライブが実はMOROHAのライブである。2018年の12月頃だったかな?ZEPP東京で開かれたワンマンライブだと記憶している。友人が「一緒に行こう」と誘ってくれたのである。この頃の僕は既にMOROHAにドップリと浸かっていて、色々と曲をディグっていた時期でもあった。確か『MOROHA BEST~十年再録~』が既に出ていたはずだと記憶している。『革命』と『バラ色の日々』を矢鱈聞いていたと思う。

僕はこれまで人生で1度もライブに行ったことが無い。単純に機会に恵まれなかったということもあるだろうけれども、人が多い場所で聞くなら1人自室に籠って黙々と聞きたいという、まあ、これはただの言い訳にしか過ぎないのだが…。「出不精をこじらせていた」と収まりのつかない言葉で収まりをつけてみようではないか。そういうこともあってライブからは程遠い場所で僕は生きていた。

実際、ライブへ着くと「こんな感じなんだな」と思い、友人の後に続き会場に入る。人がミチミチだなと思いつつ、今か今かと開始を待つ群衆に放たれた1匹の羊のような気分は未だ忘れられない。冬だというのに熱気の籠ったこの空間が既に凄さを物語っていた。ただ、それでもそこに乗り切れていない自分が存在するその解離性。空間と僕との隔たりというのはライブが終わるまで心の一種のしこりとして残っていたことは言うまでもない事実であるように思う。

MOROHAが出てきて会場がワッと盛り上がる。

まあ、そりゃそうだ。この人たちを見に来ているんだから、これで盛り上がらないなんてことがある方が状況としてはマズイ訳で。しかし、皆が皆「ワーキャー」ずっとしている訳ではなく、静かに聞いていたその光景に僕は驚きを隠せなかった。どこかでMOROHAの言葉に縛られる?捉えられる?と表現すればいいのか分からないが、皮膚にその言葉の振動が伝わる。共振?みたいな感じである。

だが、これは音響が原因であるとも言えるかもしれない。実際に生で見るのとCDを介して聞く曲には隔たりがあると一般的に言われている。無論、僕もこのライブに行ってそれを自分の身を以て体感した訳だが、それ以上に違う「何か」があったことは紛れもない事実である。その時にはたと、その絞り出すように歌う、いや、あれはもう叫ぶだな。その身体をフルに使って絞り出されるその言葉の数々は力強さそのものであったと今振り返ってみると思う。

僕は常々「生活に根差す言葉」ということを頻繁に、どこの小うるさいババアだよというぐらいに書き記す。そしてこれも決まって谷川俊太郎とセットでそれを語る。もし谷川俊太郎の言葉が生活に根差した言葉で世界の在り様を変える言葉であるとしたら、MOROHAの言葉は生活に根差した言葉で僕等の行動を変える言葉であるというような印象を持った。「世界を変える」と「行動を変える」というのは同じようで違うような気がしている。

「世界」という言葉がどこか形而上学的な印象を僕は持っている。極端に言えば「イデア」である。どこかそういう理想的な世界があって、それを模倣している世界が今ここに在る。完璧な世界ではない。だからこそ、完璧な世界を求めて進んで行く。この「完璧」というのはあくまで主体にとってである。誰それ全員に共通しているものでは無い。各々の理想の世界があって、今僕等が居る場所はその模倣に過ぎない。

その世界の中で、取りこぼしているものを言葉によって拾い集めていく。穏やかに、緩やかにその世界を捉えていく。それが僕にとって谷川俊太郎の詩だと思うし、言葉だと思う。ある一定の民族の同じ言葉を使って、世界を見つめることの重要性、世界を愛するということ。「イデア」じゃなくたって、そこにある美しさを見つけていくことが出来る。完璧じゃなくたっていいじゃない。そこに在るんだから。というある種の厭世的な感じが垣間見える。僕は中々そういうところが好きである。

しかし、MOROHAは違う。

「世界が変わんねえなら俺が変わるだけだろ」と言わんばかりの、マッチョイムズ。世界などという至極曖昧なものはさておき、というように言ってしまえばゴリゴリの精神論みたいな様相を呈している。だが、それはあくまで「叫び」という身体的行為によって引き起こされるものであり、よくよく歌詞を読んでみると、どうやらそうでもないらしい。これまた酷い言い方をするが一種の自己憐憫的な感じである。歌詞の方は女々しく優しいものが多い気がしている。先にリンクを貼った『バラ色の日々』なんかは正しくそれである。

僕はこのギャップが好きである。女々しい言葉の数々と「叫び」という身体性の狭間に居るMOROHAのMCアフロという存在が輝くのはこういう事かと。ライブをよく見ると分かるが、彼の身体は常に力強さを以て動きまわる。しかし、歌詞の節々に見えるその優しさは「飴と鞭」のそれである。MOROHAの曲はそういうSMの上手い具合の絡み合いの所産なのではないかと今こう書きながら思った。MOROHAの場合は口から言葉が出されるという生理的機能では無く、身体全体を使って言葉を紡ぐ感じである。

加えて、UKのギター。あのUKのギターが無ければ成り立たない。あのリズムがあるからこそ、MCアフロは身体全体を使って歌うことが出来る。これも極端だが、どこかの離島の部族のダンスを想像する。僕は音楽について詳しいことなど知らぬ存ぜぬだが、ああいうものに原初的な何かを感じ取ってしまうのである。そこで再び、横尾忠則が言っていた「芸術はそもそも奉納するものじゃないん?」ということを言っていたことが微かに過る。

 話が横道にそれてしまいそうなので本道に戻します。そう、誰のために描くかということでした。正解はやはり自分のためですかね。でも、夜神楽を観ていてやっぱり自分のためではないような気がしてきたのです。五穀豊穣を祈念して演じる夜神楽は、それをもたらしてくれる神への奉納です。だとすると、芸術は創造をもたらしてくれる霊感の源泉への感謝ということにならないでしょうか。霊感がどこからやってくるものか知りません。神からかもしれません。霊的存在や宇宙的存在からかもしれません。あるいは自分の魂からかもしれません。また無意識からかもしれません。今や芸術をいちいち神への奉納と考える人はいませんが、他の者を設定した方が何か宇宙の原理・原則に従って描かされているような、感応感覚を体験します。肉体が道具になっているという感覚をです。

横尾忠則「肉体と創造」
河合隼雄・横尾忠則編『現代日本文化論 11芸術と創造』
(岩波書店 1997年)P.7

だから僕は個人的にMOROHAは多分だけれども、誰かの為にとかっていう事よりも、自分の中に存在している仮想「神」の為に歌っているような気がしている。誰かに届け、誰かに響け。そういうものを超えた所に存在している気がしている。人間としての弱さ強さ複雑さ。そういったものを歌い上げるというのは正しく仮想「神」に献上するかのような印象を受ける訳だ。畢竟するに彼らは自分たちの為に演奏しているということをより鮮明に表現しているのである。

そういう部分も何だか泥臭くて好きである。彼らの言葉は行動を誘発する。自分が変わるように働きかける。言葉で世界を捉えるのでもなく、言葉で世界を変えるのでもなく、言葉で自分自身を変えるというミニマムだけれども壮大なことをやってのける。僕は今あの時のライブを思い返しながら書いている訳だが、今でも鮮明に記憶している感覚というのは一生の宝物である。


実は『やめるなら今だ』の前後かは分からないが、この曲もほぼ同時に出されている。僕は『やめるなら今だ』よりもこちらの方が好きである。この曲には「言葉で紡ぐことの難しさ」というものを僕は感じた。未練とかそれこそ自己憐憫と言ってしまえばそれで済まされるかもしれないが、結局ここで書かれる言葉の数々はどこか寒々しく、それでも熱いものがある。……抽象的過ぎるか。

日本語というのは曖昧な言語だと僕は常々思う。だが、逆を返せばそれは揺れ動く機微を捉えることが出来るのではないかと感じている。機微というのを捉えることは難しい。これについては先日、なんか記録を残した記憶がある。こういう曖昧さにはとかく不便な所も多いけれども、心の揺れ幅、身体の揺れ幅という部分を広く抑えることが出来ると考えれば、あながち悪くはないかなと思う。

MOROHAの紡ぐ言葉はそこが上手い具合になっていて、曖昧さと直截的な部分が良いバランス感覚を持っているような気がしている。フワフワしているなと思いきや、弾丸の如く言葉が飛んでくる。射貫かれるというのは正しくこういう事なのかと思い知らされる。この緩急。そしてやはり「あそび」に揺蕩うMOROHAの存在。サドとマゾの間に成立している「あそび」空間としてのMOROHAである。そんなことを考えてしまった。

「活動休止」である。やはり、個人的にはMOROHAの言葉に救われたことばかりである僕にとっては寂しい。だが、これでMOROHAのこれまでの曲が永遠に聞けなくなる訳ではないのだ。新曲が聞けなくなるということである。これまで紡がれてきた彼らの言葉は残り続けるのである。これは紛れもない事実である。僕はこれまで以上に彼らの言葉を吟味しながら曲を聞かねばなるまい。「世界は変わらないから自分を変えろ」というスタンス。時たま聞いていると心苦しくなる瞬間がある訳だ。先にも書いたが、僕はどちらかというと谷川俊太郎の如く、どこか厭世的なそしてある種の諦念のような「世界はここに在る。けれども世界を愛する」という態度を僕は支持したいところである。

だが、これまでMOROHAから教えられたことは数多くある。ただ聞くだけでは勿体ない。言葉に真摯に向き合うことを教えてもらった。それは痛みをどこか伴う道のりである。自分を変えることの難しさ。それでも世界は周っている。きっとそういう壮大な世界をまざまざと見せてくれるMOROHAが好きである。

光を与えてくれたMOROHAに心より感謝したい。

よしなに。

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