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あなたにジョーカーを愛しているとは言わせない

以下の文章は、2021年10月31日に発生した殺人未遂事件である「京王線刺傷事件」を受けて書かれた同年12月3日の記事に、その約3年後に公開された映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の鑑賞後に、追記を加えたものです。


あー私はピエロになりたい。そう、私はピエロになりたいのです。道化役のペテン師でありたい。権力や知、いや<世界>を嗤うモノホンのニセモノでありたい。世界いや<世界>に橋をかけようと縦横無尽に動き回り、<世界>と戯れたい、どうせそれが失敗に終わると分かっていても、ポップに、そして危うく。

ペテンの配達人(2015年)

私にとって大切な映画としての『ジョーカー』

私は2019年に公開された『ジョーカー』という映画が好きだ。あの『ロード・トリップ』、『アダルト♂スクール』、『デュー・デート』で知られるトッド・フィリップスが監督する、あの『容疑者、ホアキン・フェニックス』、『ザ・マスター』、『her/世界でひとつの彼女』、『インヒアレント・ヴァイス』で知られるホアキン・フェニックス主演の、これまでジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ザック・ガリフィアナキスらが演じてきた「ジョーカー」を描く映画ということで、公開前からすべてが大好物すぎて注目していた映画だった。結果として2019年のベスト映画だったし、2010年代のベスト10にも選出したぐらい大好きな映画だ。ちなみに2010年代のベスト10は以下のラインアップである(年別、順位なし)。

  • ツリー・オブ・ライフ, 2011

  • メランコリア, 2011

  • ムーンライズ・キングダム, 2012

  • 桐島部活やめるってよ, 2012

  • ビフォア・ミッドナイト, 2013

  • アデル、ブルーは熱い色, 2013

  • マッドマックス 怒りのデス・ロード, 2015

  • ラ・ラ・ランド,2016

  • ヘレディタリー/継承, 2018

  • ジョーカー, 2019

  • (次点:ドント・ブリーズ, 2016)

大好きだからこそ、、、難しい

しかし、好きな映画こそあまりおススメしづらいのは事実だ。2019年も、Endgame, Fighting with My Family, Knives Out, Toy Story 4, Yesterday, Ford vs Ferrari, Into the Spider Verse, John Wick: Chapter 3などをまずおススメして、その次にOnce Upon a Time in Hollywood, Parasite, Us, Bombshell, Can you Forgive me?, The Hate U Give, Long Shotをおススメしていた。その上でRambo: Last BloodもWhere'd you go Bernadetteも好きなジャンルじゃない場合にだけ、Jokerを薦めるといった具合に慎重だった。それでもおススメした人から、なんでこの映画が良いのか、そしてなぜおススメしてくれたのかわからないという感想をもらう一方、まったくその映画の意図とは違った見方をする人もいた。やっぱり愛している映画こそ決しておススメするべきではない。

いや、違う。私がなぜそれを愛していて、あなたにはそれを愛しているとは言わせないとちゃんと言わなければならない。あるフランスの哲学者が、彼の最も影響を受けた哲学者の思想がファシズムに歪曲・濫用される事態を非難し、それらを引き離すことでその思想を救おうとしたように。

弱さこそ強さ、を教えてくれるヒーロー映画

結論から伝えることがよきとされている。結論としては、『ジョーカー』は人間は弱いと教える映画であり、それを認めた弱者たちのヒーロー映画であり、その弱さこそが人々を繋ぐ「共感」を生み出す人間の強さであると教えてくれる映画だ。人間は弱い。弱いから希望を持つ。想像する。例えば、自分が尊敬している人から一目置かれる存在になったり、例えば、自分が好意をもつ人と恋人になったり、例えば、自分が特別な血筋の特別な人間なんだと想像したりする。その想像をもとに、その弱さを認めきれずにもともと弱いのに強がる人間が出てくる。そういう人に限って、さらに弱いものを叩く、お前らは色んな意味で貧しい、と。宇多丸よろしく、「誰もがお互い指差して『バカ!』 さもなきゃもっと弱いのから奪うか」の世界。自分が弱いことを認められず、強者に認められることでアイデンティティを担保しようとする、その方法としてのさらに弱いものを叩くという構造。つねにすでに、そしてここにもどこにも存在するもの。マジョリティに認められたいマイノリティがさらに弱いマイノリティを貶める弱さ。なぜ強がる、希望、想像力。

堕ちて自分自身を救うアナーキズム

『ジョーカー』の主人公アーサーはそんな弱さを認める人間たちに寄り添う。弱くていいんだよ、だって僕も弱いからと。彼は彼の想像力をもってして作り上げた上記の3つの希望がすべて裏切られていく。自分が尊敬していた人が実は自分をバカにしていたことが分かり、好意をもっていた人との恋人関係がすべて自分の妄想だったことが分かり、自分はなにも特別な存在ではなく、むしろ虐げられてきた存在であることが分かる。イカロスの翼が解けるその瞬間を私たちは目の当たりにする。

I hope my death makes more cents than my life

Todd Phillips, 2019, “Joker”, Warner Bros. Pictures 

自分の死が自分の人生より意味≒価値があることを望んだアーサーは自分の死に場所としてトーク・バラエティ番組を選ぶ。どうやって死ぬかのリハーサルも念入りに準備する。名前もアーサーからステージネームの「ジョーカー」に自主的に変える。自分で自分の名前を決める、疑似的な父からもらった名を。それは、支配のない世界。ドラム叩くと踊るおもちゃChanelに取り憑かれた女の子平和の裏に繋がれたチェーン、ではない世界。

そんな死の覚悟を決めたジョーカーを前に、ロバート・デ・ニーロ扮する人気トーク・バラエティの司会者マレー。何が無駄で、何が大切かを簡単に決めようとするマレーに対して、明らかにいらだちを隠せないジョーカー。そこでジョーカーは、この世の中はひどいんだ(Awful)とマレーに説く。私みたいなゴミが死んでも何も言わないくせに、と。そして、彼は問う。マレー、お前に他人に共感する能力は残っているかと問う。マレーは「それが3人の若者を殺す言い訳か」みたいなことを言い、みんながみんなひどいわけ(Awful)ではないという。ジョーカーは自身の人生よりも、そして彼の自死よりも意味≒価値のある生き方を見つける。それは、弱い人間としての自分を認め、その「弱者」をゴミみたいに扱う人間に反抗することでプロップス(支持)を生み出すという生き方だ。まさしくこの瞬間、マレーはロバート・デ・ニーロが演じた映画『タクシードライバー』のトラヴィスになり、映画『キング・オブ・コメディ』のルパートとなった。モヒカンにサングラスではなくピエロの出で立ちでバラエティーショーの本番中に、足りている側へと転落してしまったそのロバート・デ・ニーロをホアキン・フェニックスは撃つ。

人間はすべて弱いこと、その弱さを認められるゆえに、人は人の悲しみに共感できるんだと思うんですね。例えば、アーサーの家に元同僚の2人が訪ねるシーン。アーサーは1人を残虐に殺害し、もう1人はおでこにキスをして逃がす。この生死を分けた差は、強いふりをしてさらに弱い者を叩く人間か、弱さを認めた上で人の悲しみに共感できる人間かの違いだろう。ここでジョーカーは明らかに弱い人間に寄り添う、というよりも強いふりをしている人間に弱い人間の代表として立ち向かう。死のうと思っていたけれども、蓄積されてきたゴミとして扱われる側の人間の痛み、それを表現する側にに立つという覚悟とその爆発。

愛を持って助けに行け!

狂っているのは自分か、世界か。時代や気分によって変わるその線引き。なのに、皆んな本物を演じきろうとする。ジョーカーはそんな奴らを笑う。強がんな、と。自分は弱いと認められることが、人々を繋ぐ「共感」を生み出す人間の強さだろう、と。最後に、アーサー/ジョーカーを演じるホアキン・フェニックスのアカデミー賞主演男優賞を獲得した時のスピーチを見て欲しい。

最後に彼は、彼の兄、故リヴァー・フェニックスの詩を言葉に詰まりながらも引用してこのスピーチを締めくくる。

Run to the rescue with love and peace will follow(愛を持って助けに行け、さらば平和は訪れる)

River Phoenix

人(や動物)の悲しみに共感した時には愛を持って救いの手を差し伸べられるような人間になろうね、『ジョーカー』を鑑賞した後にはそんな風に聞こえてくる。もちろん、本作品を『ネットワーク』、『カッコーの巣の上で』、『モダン・タイムス』そしてちょっとだけ書いた『キング・オブ・コメディ』、『タクシードライバー』(どれも私の大好きな作品群だ!)から読み解くことは可能だったと思う。でも、そんな解説じみた言葉はまったく無力な気がしている。

葛藤の中で引き裂かれる同一性の肯定

昔から悪役が好きだった。学芸会でも悪役側の配役をもらっていた。小学校の頃、プロレスが好きになった時は蝶野正洋が私にとってのヒーローだった。毎回いいところで負けるそんな悪役に憧れた。永遠の失敗性だ、それこそが何度でも私を立ち上がらせてくれる、もう一度、もう一度、と。大学3年生から4年生になる頃、私はこのあまりにも理不尽で偶然に満ちた世界を好きになり始めた。この偶然性を信じてみようという決心ができた。そう思えるようになると、イマ・ココにいる私もあなただったの「かもしれない」という考えがまるで亡霊のように常に付きまとうようになった。そこには必ず私とあなたとの間を考えてしまう葛藤が生まれる。その葛藤を常に抱えながらも、葛藤の中で引き裂かれる同一性の肯定をしていこうと思った。そういう考えが根本にあるから、私はこの『ジョーカー』のアーサーに、『ダークナイト』のジョーカー以上に感情移入してしまうのだろう。だから、私はこの作品が好きなのだ。そして、あなたにジョーカーを愛しているとは言わせない。

追記:映画『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の鑑賞を経て

Put on a happy faith!(幸せそうな信念をして!)

なぜ単独性は常に「私たち」の形成に失敗してしまうのか

単独性[Singularity]はどうしていつも「私たち[We]」の形成に失敗してしまうのか。『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』を鑑賞してあとしばらく、そんな疑問に取り憑かれてしまっていた。この単独性[Singularity]、つまりは交換不可能で、還元不可能で、譲渡不可能な互換性のない独自性(ユニークさ)がその差異と同一性を踏み越えて「私たち[We]」を形成しようとすると必ず失敗してしまう。ドゥルーズという哲学者はいても、ドゥルーズ=ガタリという哲学者はいないのと同様に。これはある種、「家族=『私たち』」とは何かという問題に直面してしまう。あの「私たち」でもなく、その他の「私たち」でもなく、この「私たち」をどう作り上げていくのか。それはどうして必ず失敗してしまうのか。では、どうやってより良く失敗するべきなのか。

私たち[We]の間に交差[Chiasm]はないが、裂け目[Chasm]はある

ふと、音楽が聞こえてくる。その聞こえてくる音楽に合わせて歌いたい。そう、歌いたいだけなのである。シンフォニックな音にハーモニックな声を合わせて「私たち[We]」を編み込みたいだけ。でも『フォリ・ア・ドゥ[Folie à Deux]』のデュエット[Duet]はいつも邪魔されてしまう。
いつも邪魔されて最後まで歌わせてくれない音楽が嫌いになってしまったのだろう。もう音には乗れない。そんなアーサーは、ジョーカーである自分、ジョーカーになれる才能を持つ自分の単独性[Singularity]を信じられなくなっていく。逃げ出したくなる。このジョーカーの身体性の所有者である自分から逃げ出したくなる。身体性の所有の痛みから逃れたくなる。
この自己本位的なわがままが体現するのは、有害な男性性[Toxic masculinity]そのものだろう。自分で勝手に追い込まれ、「生活のための労働か、自分の夢を追いかけるのか」という究極の2択にまで視野を狭め、「家族になりたいから自分を捨てる」という2分の1を外す悪手によって、単独性[Singularity]は「私たち[We]」の形成にいつも失敗してしまう。『ラ・ラ・ランド』や『花束みたいな恋をした』でも掘り下げられまくった問題系の再演である。The Eternal Return of the Repressed.
ジョーカー・ステアーズ[ジョーカーの階段]で再会を果たすアーサーとリー。もう自由だから2人で「私たち[We]」を形成することができると思っているアーサー。そんなアーサーを横目にリーは歌い出す。「世界は舞台で、舞台は世界である、それがエンターテインメントであるにもかかわらず、その二つをあなたは切り離してしまった」と彼を非難するように。そんなリーにアーサーは'Please don't. Please talk to me.'(「頼むから、歌わないで、話してくれないか。」)もう、アーサーとジョーカーを切り離して「葛藤の中で引き裂かれる同一性」を肯定できなくなったアーサーには、どうしても歌が無意味、なんなら危険なものとすら思えている。ここでセイレーンの美声に抗うオデュッセウスを見た人も多かっただろう。
「そんな無意味な歌はやめて、意味のある話し合いをしよう。」
これが自分自身に信念[Faith]を置けなかった、最後まで自分自身の才能に自信を持ち続けられなかった哀れな男の最後の言葉である。

空気よりも軽い茶番を「真剣に」演じること

Joking is deadly serious like poetry and wit is cleverer than critical judgement
(ジョークは詩のように大真面目で、ウィットは批判的判断より賢い。)

23年の懲役が言い渡された「京王線刺傷事件」の被告男性は、裁判記録によると、「(ジョーカーは)人の命を軽く見ている、人を傷つけることに対して何とも思っていない、と思っていました。自分も(人を殺して死刑になるためには)そのようにならなくてはいけないと思いました。目標というか、ジョーカーになり切ろうと、そう思いました」と言ったという。やはり、彼は何にもわかっていなかった。だから、「あなたにジョーカーを愛しているとは言わせない」と3年も前に言ったのである。
衣装は『ダークナイト』のヒース・レジャー版のジョーカーだったが、明らかに電車での殺傷事件、そして最後に手を振るわせながらも慣れないタバコを吸ったパフォーマンスは明らかに『ジョーカー』(2019年)からだろう。人の命を軽くみてるとか、人を傷つけることになんとも思っていないわけないだろう。アーサーは「蓄積されてきたゴミとして扱われる側の人間の痛み」に寄り添う側の人間で、それによって単独性[Singularity]を獲得した人間である。単独性[Singularity]が「私たち[We]」の形成に失敗することはあっても、「私たち[We]」の形成に失敗したからといって無差別に人を傷つけて単独性[Singularity]を獲得しようとなんて、アーサー/ジョーカーは決してやらない。
そして、最後にもう一つだけ。最初は映画館に行ってみようと思っていたけど、レヴューや評判を見聞きしている間に、やっぱり別の映画を映画館で見ることした人々にはこう言いたい:あなたはジョーカーを愛している、と。なぜなら、あなたもアーサーもどちらも最後まで自分を信じることができなかったからだ。あなたこそがジョーカーを真に愛しているのかも知れない。私は観に行った時点で、最後まで自分を信じてしまった時点で、ジョーカーを愛していないのかも知れない。私はもうジョーカーを愛しているとは言えない。

Joker: Why so serious? Why so serious?
Joker: You talkin' to me? You talkin' to me? Then who the hell else are you talking... you talking to me?
Joker: Well I'm the only one here. Ok, I can answer to your question. Because joking is deadly serious.


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ペテンの配達人
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