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病んでから、何年もずっと小説が読めなかった―ハン・ガン『菜食主義者』


ハン・ガンと私の病と



ハン・ガンの作品の最高傑作、いや韓国の現代文学すべてにおける金字塔と名高い『菜食主義者』を読んだ。


しかし、私にとってこの作品は最高傑作以上の意味を持っていた。

というのも以前『ギリシャ語の時間』を読んだとき私は閉鎖病棟にいて、しかも措置入院中だった。拘束され一切身動きが取れない中数日を過ごした後、処置室から閉鎖病棟に移った私は、論文や『十二国記』全巻とともに『ギリシャ語の時間』を読んで、三か月にわたる入院期間を過ごした。


『菜食主義者』は、突如一切の肉食を拒絶し、夫をはじめとする周囲の人間から疎まれ、次第に衰弱してゆく主人公・ヨンヘにまつわる三つの物語から構成される。
口に突っ込まれた肉を吐き出し、義兄とセックスを始め、しまいにはすべての食事を受け付けなくなり、病棟で大暴れする……。
そんな「向こう側に行った」ヨンヘのあり方はかつて入院した時の私のありかたによく似ていた。
そして正気が失われゆくヨンヘに対する作者の眼差しは『ギリシャ語の時間』の二人に対するそれ同様透徹していた。
その事実に私はとても救われたし、措置入院したことを特に秘密にしなくてもいいか、と思えるようにもなった。

今、私はかかりつけ医と相談して抗うつ剤と睡眠薬を断薬するに至り、十年(中断を挟むと十七年)続いた心療内科の受診も卒業できそう、という地点まで回復してきている。本当に、本当に長い道のりだった。

そして、寛解してきてようやく自分を蝕んでいた病の深刻さがわかる、ということもある。
「あの時」以来、私はほとんど小説を読まなくなったのだ。

物語の忘却



話題の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』に似た病のように思えるが、そうではない。私の「小説が読めない」病は学生時代の終わり頃から延々と続いていて、もうひとつ奇妙なのは「小説でない本は普通に読める」点だった。

「なんだ、そんなことか」と思う人もいるかもしれないが、個人的には死活問題だった。
周囲の人間は皆文学部だった(しかも本気で文芸を極めるために大学に来た友人も多かった)ので、基本的に「摂取した物語」抜きのコミュニケーションが成り立たなかった。
映画、美術、音楽、そして文学。
身の回りには常に物語が漂い、それの何が己を揺り動かすのか、ということをベースにすべてのコミュニケーションがなされる環境だった。

ここ一年で私が観た映画は「福田村事件」「オッペンハイマー」「首」「関心領域」「ゴジラ-1.0」の五本だけだ。
戦争、殺戮、暴力、性加害……。そういった内容を扱う、シビアかつアクチュアルな芸術しか、もはや心に一切届かなかった。

「花束みたいな恋をした」の麦の名台詞に「息抜きにならないんだよ。頭入らないんだよ。パズドラしかやる気しないの」というものがあるが、人間の本質を抉る悲惨かつ重苦しい映画とクッキークリッカーしか受け付けない状態は、それに輪をかけて明白におかしいなとは思っていた。


つまるところ、「ここではないどこか」「この世にない美」「自分でない誰かの物語」を受け取れなくなった自分は、痛みと傷と深淵を覗いて生まれた「不条理への怒り」によってしか、自分の心のかたちを感じ取れなくなっていたのだ。辛い現実を直視しない世の中の人間は甘えているとさえ思っていた。

何があっても心が動かない自分のありようはほとんど機械じみていた。それを自覚したのは身内の葬儀の時で、とても大切な人だったにも関わらず、私は泣くどころか死を悲しむことすらなく、ただ淡々としていた。

そして何故だろうと悩み続ける中で、私はこれは性被害を受けて発症したPTSDの「解離」ではないか、ということに気が付いた。

魂と時間を奪い去られて



ふとしたことで過去をフラッシュバックし続け、当時を思い出し続ける。
記憶の只中に凍り付いた20歳の頃の自分が、怒りという名の熱に晒されるたびに何度も何度も融かされては、悪夢として立ち現れる。

犯人が奪ったのは私の尊厳だけではない。
犯人が傷つけたのは処女だけではない。

解離の症状は脳が積み重ねてきた記憶を「今の私」からふるい落とす。フラッシュバックは「今の私」から怒り以外の思考を奪い去る。

『夜と霧』において著者のヴィクトール・フランクルは、人間としてのすべてを奪い去られた絶滅収容所のなかにあっても「温かい過去の思い出」だけはナチスが奪うことができないと述べた。
囚人たちはしばしば過去に逃避することで生命を長らえさせ、労働が可能であるように見せることでガス室送りを免れようとしていた。

では、解離によって甘い記憶が抜け落ちた私は?
病にかつての記憶を奪われた私は、いったい何をよすがに生き残れるというのだろうか?


記憶は人間の過去であり、思考は人間の未来を規定する。
過去。現在。未来。
犯人が奪い去っていったのは、私という存在に流れる時間そのものに他ならないのだ。


時間を奪われて錆びついてしまった機械に感情を学習させる時、人間はどんな物語を与えれば良いのだろうか。

世界にもう一度抗するために



回復しかけの時期に触れることができて、非常に「面白いな」と思えた作品のひとつが『葬送のフリーレン』だった。


主人公はエルフの魔法使いフリーレン。彼女が勇者ヒンメルの死をきっかけに、次の世代の頼もしい仲間たちと出会い、北の果てにある「天国」エンデにいるヒンメルを目指す物語だ。

「フリーレン」はグリーフケアの文脈で語られることもしばしばある作品だが、ちょうどこの頃の私はとてつもなく大きな喪失を経験して、本当にひどく打ちのめされていた。漫画自体もそのような視点で読んでいたと思う。


物語の人物に感情移入すること、あるいはここではない景色に想像力を巡らせること。それらをスムーズに行うには心を柔軟に鍛える訓練が必要だ。小説をずっと読んでいる人間は忘れがちな事実だが、最初からできる人はこの世にいない。
その頃の私はまだまだ中途半端だったし、恐らく「フリーレン」を十分味わえたとは呼べないだろう。


それから半年ほど経って「鳴潮」というゲームを始めたことで、ようやく久々に「ファンタジーって面白いな」という感想を心から抱くことができた。


ストーリー・キャラ・戦闘のすべてがリッチでよく出来ていたし、「アークナイツ」や「デス・ストランディング」をモチーフにした世界観がとても好みだった。最新のソーシャルゲームの過剰ともいえる演出のおかげで、ようやく「物語」を受け取る力を完全に取り戻したように思う。



それからの私の回復はなかなかめざましいものがあり、一日一冊~三冊は本を読むようになって今に至るのだが、もっとも「取り戻した」と感じたのが修辞に感動する能力だった。とりわけそれを実感したのは、ブルハン・ソンメズの『イスタンブル、イスタンブル』だった。


美しい文章、とりわけ詩的な修辞に心を動かされるようになったのは、本当に何年ぶりだろうか。
牢獄で激しい拷問を受けながらも人間性を失わない登場人物の口からひとつひとつ物語られる、イスタンブルの夢のような情景を読んで、ようやく「美しい」という感性が何年も死んでいたことをまざまざと実感した。


獣はだれなのか?


そして『菜食主義者』に話は戻る。

この作品は主人公の夫・義兄・姉の三人の視点からヨンヘについての物語が展開される。植物になりたいという強烈な望みを抱くヨンヘはある日を境に一切の肉食を拒絶し、家族が心配して無理やり肉を食べさせようとしても吐き戻してしまうようになる。
暴力を振るわれてもなお「夢を見たから」という理由で肉を拒絶し続けるヨンヘの態度は、家族の不和を招き寄せる一方、義兄の美への渇望と激しい性欲をも呼び起こす。

やがて「芸術作品の制作」と称した義兄との性交が姉インヘに露見したヨンヘは精神科に入院させられる。だが、ヨンヘはついに絶食して本当に植物になろうと試みる。点滴を刺す場所もなくなってしまったヨンヘはこのままでは餓死するということで、胃にチューブを挿入する処置を施されそうになるが……。

植物に憧れるあまり暴れるヨンヘの狂気は「獣性」と紐づけて語られることが多いが、実際閉鎖病棟にいた頃の自分を思うと「獣性」とは非常に遠く離れていると思う。なぜなら、ヨンヘの「植物への憧れ」はあくまでも理性から発したものだからだ。
狂ったように見える暴力や自傷、性交も彼女なりの理性と意志による確固たる「選択」から来ていて、とても「獣の本能」には見えない。
少なくとも私がヨンヘのような状態に至ったときは、たとえ病に突き動かされて責任が失われた状態だったとしても、確実にみずからの意志で「選択」していた。

ヨンヘの状態はむしろチェスタトンの「狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である」という箴言に近い。ハン・ガンの冷静な筆致もヨンヘの理性を強調しているし、そもそも理性のない獣は人間のように狂えない。

むしろ、愚かな獣のように見えるのはヨンヘを突き放した夫や父親、逆に強い欲望を抱いて近寄る義兄のほうではないだろうか。
みずからを「正常」或いは「こちら側」と定義することで、「向こう側に行った」精神病者を注意深く排除する者たち――。
「夫」「父親」「義兄」というヨンヘの生を脅かす獣が生まれた揺籃は、韓国社会を規定する強烈な家父長制であることも作中では暗示されている。
そうしたアプローチゆえに、『菜食主義者』はフェミニズム文学としても強く響く。

このような構造において、夫を奪われた恨みを持ちつつもヨンヘを気遣い続けるインヘの存在は、獣と人間と植物を行き来する本作の人物の中でとりわけ印象的に映る。

子育て、経営、夫の失踪、家族の不和、妹の病状の悪化。インヘを取り巻くあらゆる状況は悪化し続ける。
彼女は自らも妹のような狂気に落ちる可能性に怯えながら――精神病院に通い続け、病を抱える患者たちに安らぎを見出す。作中で「狂気」に最後まで寄り添えている人間はインヘしかいない。

餓死による自殺を選びつつあるヨンヘに対してどう行動すれば、彼女の「尊厳」を守れることになるのか。ヨンヘが「選択」したのと同様に、インヘにも容赦なく「選択」の刃は突き付けられる。最後の瞬間まで逡巡するインヘに存在するのは、間違いなくヨンヘに対する優しさと愛情だった。
それこそが、獣ならざる人間のあり方ではないだろうか。

我々はどこまでインヘに近づけるのだろうか――それを問いかけてくる『菜食主義者』はケアについての小説でもある。

未来なき明日への祈り


「回復の見込みがない家族に向き合う」というこの作品のテーマは非常に厳しい。
ただ、たとえば人間に降りかかる老いを「回復できないまま死に至る病」と捉えるなら、一見極端に見えるヨンヘの物語はあらゆる人間の最期に重なるものとなる。

見捨てるのか、生かすのか、寄り添うのか。
「生かすこと」が「寄り添う」ことと同じではない現実も横たわる。

そして残された人間には「愛する者を失った未来」が待ち受ける。
死者の生を物語として受け継ぐ立場の我々は、終わりゆく人のために、せめて何を選択できるのだろうか。



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