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また延命

死にたかった。
毎日、頭の中で自分を殺していた。日に日に想像は具体的になっていき、それはいつしか自殺衝動になった。実際に行動に移してしまいそうな自分を「死んではいけない」という気持ちだけでなんとか抑える。でもそれも、限界だった。
「死んではいけない」が「死にたい」に負けそうなのを感じる。この先も死の衝動に打ち勝ち続けられるとは思わなかった。今日は生き延びられたけれど、明日も生き延びられるという自信を持てない。それくらい、いつ負けてもおかしくないと思っていたし、心のどこかでは、もう負けてしまいたい、負けでもいいから死んでしまいたいと思っていた。
次にまた死のうという衝動が来たら、そのまま死んでしまおう。そう思っていたのに、いざ本当に激しい衝動が来て死を目の前にしたとき「助けてほしい」と思う自分がいることに気づいた。
気づいてしまったから、死ねなかった。

助けてほしかった。
しばらく入院することになった。
「死んではいけない」と「死にたい」のほかに抱えていた「死ななくちゃいけない」という気持ち。早く死んだ方がいいとずっと思っていたから、自分に「生きていてえらい」なんて言葉はかけてあげられなかったし「死ぬことすらできない」と責めることしかできなかった。
だけど、入院しているときだけは、死ななくちゃいけないという呪縛から逃れることができる。命を守るための環境は、わたしの生を許し肯定してくれるのだ。ここ(病院)にいるときは、自ら死のうとしなくていい、生きていていい、なぜかそう思える。

わたしはまた、こうして延命してしまう。
死にたいときに死なずに生き延びてしまうから、今まで苦しみが続いてきてしまったのに、わたしはまた生きる方を選んでしまう。なぜだろう。生きるということは苦しむということで、助けを求めず死ぬことこそが救いだと、そう思っているはずなのに。「死にたい」と同じように心に抱いてしまう「助けてほしい」という気持ちを見て見ぬふりできなくて、死を選べない。死ぬことからも逃げてしまう。

この先も生き延びるぞという気持ちより、いつかの未来で死んでやろうという気持ちの方が強いわたしが助けを求めていいのだろうか。本当の救いとはなんだろう。死ぬことが救いだと思うのに、生きて救われたいとも思っているらしく、その思いのせいでいつも死にきれない。生きると死ぬで揺らぐ自分、揺らいでいるうちは死ねないのだろうということも分かっている。

また死ねなかった。
今回も死の近くまでは行ったはずなのに、選べずに生きる道に戻ってきてしまった。前回も前々回もそうだった。あと少しのところで死ねない。
助けてほしいという気持ちを捨てきれない限り、わたしは延命を繰り返してしまうのだろう。救いなんてないと感じていたこれまでの日々を忘れて、救われる未来を諦めきれずに生きるのだ。わたしはどうせ死ねないのだろう、今はそんな諦めのようなものを感じている。

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