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救われないね

はじめて精神科に足を踏み入れた日から何年が経っただろう。あの日から人生が変わった、と言ったら大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、何も大袈裟じゃないくらい、精神疾患はわたしの人生に多大な影響を及ぼした。どこまでがその病気のせいで、どこまでが自分のせいなのか、いくら考えても分からないしもう考えたくもないけれど、あるときからわたしの人生は、生活は、精神疾患とともにあった。

この病気になってどれだけのものを失っただろう。当たり前のように手にするはずだった幸せとか、日常とか、未来とか。失ったものばかりに目を向けたくはないけれど、それにしてはなくしたものが多すぎた。
失いたくないものほど、手のひらからこぼれ落ちていくような毎日だった。落としたものを拾おうとすれば、まだ手にあったものを落としてしまう。得たものよりも遥かに多い失ったものたち。思い返せば、失ってばかりだった。

心は幾度となくズタボロになった。その度に必死に繋ぎ止めても、ツギハギだらけの心はとても脆くて、またすぐに壊れてしまう。壊れて、直して、壊れて、直して。もう二度と壊れる前には戻らないのに、今度こそはって繋いだ心は、またすぐに壊れた。

だれかに救ってほしかった。わたしは救われたかった。失ってばかりで何もない、ただ脆い脆い心しかないわたしを、救ってほしかった。
だから色んなものに縋ってきた。痩せた身体、腕や脚の傷、多量の薬、そして医療。わたしを救ってくれるならなんでもよかった。

だけど、何に縋っても、本当の意味でわたしが救われることはなかった。救われた気になっても、それはまやかしにすぎなかった。

あるときから、どこかで気づいていた。
わたしを救えるものとは、精神医療でも他の何でもなく、自分自身だけだということに。

精神的な病気 いわゆる精神疾患は、患者に治そうという意思がないと良くならないという話をどこかで聞いたことがある。それを耳にしたとき、その通りだと思った。
診察を受ける、薬を飲む、それだけしていれば勝手に病状が良くなる、治るなんてことはないように感じる。それらのいわば治療行為はあくまでも補助的なものでしかなく、苦しい状況から救われるためには、その補助を受けて自ら這いあがり前に進む努力が必要だ。受け身の姿勢ではいつまで経っても“本当の意味で”救われはしない。

差し伸べられた救いの手を掴むのも掴まないのも自分次第、掴んだ後どう行動するかも自分次第、それらの救いを意味あるものにできるのは自分自身だけなのだ。

そのことに気づいた日から、救われたいと思う度にこのことを思い出し、じゃあもう救われることはないかもしれないと思う。自分自身に、自分を救えるほどの力が、意思が、あると思えないからだ。

救われたかった。本当の意味で救われない、救えないわたしは、これからもこの心と身体で何かに縋りながら生きていくのだろう。いつか死ねる、その日まで。


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