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夢のおわり

上の記事でも書いたように、わたしは5月末から躁状態に入っていた。入ったばかりのときは、この状態が躁状態と言えるものなのかどうか(もしかしたらただの元気ではないだろうか…)と思ったときもあったが、今なら自信を持ってはっきりと言える。躁状態だったんだよ、と。理由は明白、躁状態が約3週間続いた今、わたしの気分が落ちていくのを感じているからだ。毎日、躁状態の終わりを痛感している。

躁状態というものは決して永遠に続くものではないこと、ちゃんと分かっているのに、渦中にいるとまるで永遠じゃないかというように思ってしまう。それこそが躁状態の症状なのだと、渦中ではなくなった今のわたしには分かる。

躁のあとには鬱がくる、そういうものなのだ。上がれば下がる、そういうものなのだ。双極性障害って。

分かっていても、何度経験しても、躁のあとの鬱に慣れることはない。おまえは病気なんだと突きつけられているようで、悔しい。なんでふつーに元気でいられないんだろうって思ってしまって、悲しい。やっぱり、鬱はつらい。

元気だった躁の自分と、毎日気分が鬱っぽく落ち込んでいってしまう自分のギャップを受け入れられない。鬱を認めたくなくて無理矢理に元気を取り繕うと、そのあとにやってくるのはものすごい疲労感。躁状態のときには感じなかった、心に重いなにかがのしかかる感覚。認めまいともがけばもがくほど、今の自分が元気ではないことを実感してしまう。まるで躁で前借りした元気を取り返すように鬱に吸い取られていく。

疲れてしまう。こんな気分の上下に。楽しいことも、苦しいことも、幸せなことも、悲しいことも、感じてしまうから疲れる。もうなにも感じなければ、振り回されることもなくなるのにとすら思ってしまう。

自分への嫌悪や自責が自傷衝動へとなり、衝動を抑えきれずに腕に刃物をあてる、力をこめる、切る。そうしている間は気持ちが凪ぐ。心のざわつきが消え、なにも感じなくて済む。落ち着きを求めて、また刃物をあてる。そうしているうちに、ちょっとした心の乱れでも切ることでしか落ち着けなくなってしまった。元から傷跡だらけだったわたしの腕は、心が乱れるたびにその上からまた傷が重ねられた。そうすることでしか、感情を、衝動を、自分を抑えられなかった。

毎日、自分の心を蝕んでいく鬱を感じているのに、それからは目を背け、残されたわずかな大丈夫な部分を見ては「まだ大丈夫だ」と言い聞かせている。
大丈夫じゃなくなっていることを、鬱であることを認めてしまえば、ほんとうにもう生きていけない気がして。
夢のような躁は終わってしまったけれど、わたしは鬱じゃない、まだ元気だって、そうやって自分をだまして現実を生きていくしかないのだ。

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