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#60 同調圧力克服法~大塚ひかり『くそじじいとくそばばあの日本史』より~|学校づくりのスパイス

 教員にしても児童・生徒にしても、とかく「足並みをそろえる」ことが重視されてきたのが日本の学校現場です。この原因の一端は従来の日本社会のあり方自体に由来するものであろうし、よい面も確かにあるのですが、一方で学校という社会集団に必要以上の同調圧力を産む可能性もあります。

 2021年の中央教育審議会でまとめられた、「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~(答申)」においても「従来の社会構造の中で行われてきた『正解主義』や『同調圧力』への偏りから脱却」が強調されています。これは今日の学校組織には、正解主義や同調圧力が深く根づいており、それが児童・生徒の学びの障壁となりうることの裏返しといえるでしょう。

 今回はこの同調圧力をいかに克服できるか、という話題について、大塚ひかり氏の『くそじじいとくそばばあの日本史』(ポプラ社、2020年)をヒントに考えようと思います。

大塚ひかり『くそじじいとくそばばあの日本史』ポプラ社

「同調圧力」って何だ?

 上記の答申で指摘されたように過度な「正解主義」や「同調圧力」が、今後の個人・社会の成長にとって問題である、ということを認識するのは簡単ですが、学校現場がこうした「正解主義」や「同調圧力」から自由になっていくことはそう容易なことではないだろうと、大学という場で現職教員と日々向き合っている筆者は考えます。

 というのも、教育には常に評価がつきまとうからです。学校で評価を行うということは、社会的にも承認された一定の「望ましさ」の基準を持つことであり、それは児童・生徒の思考や行動を価値づけ、特定の方向に促していくはたらきにほかなりません。そしてこのこと自体は評価にルーブリックを活用してみたり、児童・生徒同士の相互評価を取り入れたりしてみたところで変わりません。

 加えて日本社会の文化的性向として人の目を気にしすぎるところがあります。米国の人類学者ベネディクトは他者の評価を内面化して、自己の行動規範とする日本人の文化的性向を「恥の文化」(『菊と刀』1946年)と呼びました。この解釈には批判もありますが、政府がマスク着用を個人判断に委ねる方針を出してもなお、多くの人がマスクをとることに躊躇している日本の光景は、少なくとも他国の様子とは相当に異なります。

 では、こうした正解や同調への傾斜は、日本文化の本質に根ざした普遍的傾向といえるのでしょうか? 

 どうもそうではなさそうです。本書のなかでは「昔話のおじいさんとおばあさんは意外と『いい人』が少ない」(150頁)ということが指摘されていますが、本書を読むと、過去の時代に生きた人々の「困った側面」が多々見えてきます

 たとえば「一休さん」でおなじみの室町時代の僧侶、一休宗純(1394~1481年)は「七十七歳の時、二十代後半の盲目の森女と出会い、愛欲に溺れている」(78頁)と記されていて、その前から男色も女色もたしなんでいると公言していたそうです。

 また、藤原道長の子ども頼道は28歳で関白になってから弟の教通とも権力争いを続けながら50年近く現役の関白の座に居座り、二人の姉の彰子は87歳で死ぬまで国母として国のトップに君臨していた話(46~53頁)、自ら計画して48歳で家来の家に押しかけ婚をした戦国武将の母がいたという話(86~91頁)など、自由奔放?に生きた数多くの歴史上の人物が紹介されています。

開き直ると世界が変わる⁉

 前回・前々回の連載でも見てきたように、縄文以来の日本史の伏線には、社会の本流から離れ、自由な生を求めた動的な世界観・人生観が確かに存在していたのです。この本で取り上げられている人々は(よいか悪いかは別として)、社会の空気感から決別するエネルギーをもっていた、ということだけは間違いないでしょう。

 大塚氏も歴史学者ではなく、本書に出てくる話の中には、筆者が以前に聞いたことのあるものもあります。けれどもこの本のおもしろさは、歴史的事実よりも、そうした人々をあえて「くそじじい」や「くそばばあ」と呼んでみた、というところにあると筆者は考えます。

 本書を読みすすめていくと「くそじじい」や「くそばばあ」として生きるのは、案外楽しそうだなと思えてきます。

 もちろん、世間の規範を疑い、人に顔をしかめられるような行動をするのはそれなりに勇気のいることではあります。

 自分にはそのような度胸はないと感じる人も多いかもしれません。

 けれども、心配するには及びません。世間的には「まとも」といわれる人であったとしても、数十年も生きてくれば、道に外れた行いやはずかしい失敗も山ほど重ねてきているはずです(少なくとも筆者はそうです)。

 そうした自身の黒歴史の数々をちょっと思い出してみてください。たいていの人はそんなとき、「今さら格好をつけたところでしょうがない、世間様が陰で何を言おうが、自分がやりたいことをしよう」と動き出すこともしやすくなるのではないでしょうか?

 反対に自分の過去の栄光や世間の評価にとらわれればとらわれるほどに、それらを失うのが怖くなり、人と違うことを考えたり人とは違う行動を起こしたりするのが怖くなっていくはずです。美辞麗句に埋め尽くされた現代の学校という社会において、「同調圧力」を克服して必要な変革を起こしていくためにも、今こそこうした「開き直り」の思考法が必要なのではないかと筆者は考えています。

 筆者も自分自身を振り返ると、とくに50を過ぎた頃から、「職場や学会の評価などどうでもいい」と以前にも増して感じるようになってきました。残りの人生が見えてきたときは、開き直って人の評価に決別し、「くそじじい」や「くそばばあ」になる好機でもあります。

 人生は長くなり、人の評価から自由になる転機を、積極的につくってみるのも悪くはないと思うのですが、いかがでしょうか。

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

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【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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