僕は女として生きることに苦痛を感じている。 学生の頃は制服で電車に乗れば、痴漢をされるのは当たり前だったし、盗撮されることだってあった。街を歩けば、声をかけられ付き纏われる。最寄り駅まで着いて来られたことさえある。 その行為自体に不快感や嫌悪感もあるが、屈辱的で尊厳を踏みにじられているような感覚が永遠に僕を支配する。人間には様々な自由、幸福を追求する権利が与えられているが、僕はそんなものを望んではいけない。望んだらまたひどい目に遭うかもしれないと錯覚させられるほどに
読んだ本について、あらすじに触れたり触れなかったり、自由に考えたこと、思い出したことを書きます。まだ読んでいなくて、新鮮な気持ちで作品を楽しみたい方は読まない方がいいかもしれません。 太宰治の「人間失格」をはじめて読んだ。 僕は、人間としての生きづらさを上手く言葉に出来たことがなかったので、「人間失格」を読んで、すっきりした気持ちになった。純文学というこの本に出会い、こんなふうに自分の気持ちを表現していいんだと知り、嬉しかったし、僕も書いてみたいと思った。
大人になると別れが顕著になってくる。なんとなく疎遠になってしまうこともあれば、きっぱり付き合いをやめようと思うこともある。 今までは、何の理由もないまま顔を合わせたり、与えられた機会の中で、過ごしてきていたわけだから当然だ。社会に守られながら、好奇心のままに気分が赴くままに友人と遊ぶことができた。 ところが社会人になると、想像以上に自由な時間は少ないし、新しい友人なんてできやしない。それに、会社という組織では、慎ましく正しく在るべきとされている。 窮屈な日常の合間、
ここ最近、実は落ち込んでいて、文章を書く気持ちになれなかった。見聞を事実として認識してしまうようで、たまらなく恐ろしかった。気持ちを言葉にしたら、負の感情をいっぱいに抱え込んだまま、帰ってこられなくなるような気がしていた。 この2.3ヶ月の間、良くないニュースがとめどなく舞い込んできては、その重々しい事実たちがじっとりと纏わりついて、日々の疲労や不安と混ざり合う。涙が知らぬ間に流れ落ちたり…無為に考え込んでしまったり…いつまでもこびりついてしまう。それでも変わらない毎日
花が枯れた。ある花は水分が失われてカラカラになっていた。ある花は項垂れて甘ったるい匂いのする蜜を、垂らしていた。 花束がやって来たばかりの時は、部屋の中がフレッシュな甘い匂いで満ちていて、幸福感でいっぱいだった。ユリは香りが強いから、お見舞いには向かないと聞いたことがある。3本のユリが、自分の存在を誇るかのように、部屋いっぱいに香りを際限なく広げていた。様々な花があったはずなのに、僕はユリのことばかりを思い出す。 僕は花というものに今まで全く興味がなかった。ところが最近
仕事でずっとパソコンに向かう毎日を送る僕だけれど、日々のワクワクを大切にしながら生きている。例えば今日は、麻婆豆腐を作って食べることや、昨日生まれたばかりのネズミが家で待っていること。 ネズミは、正面から見ると不格好で、ちっぽけで頼りない僕に似た、小さなぬいぐるみのことだ。 僕は、僕のことだけを考えて、毎日待っていてくれる存在が欲しくて、ネズミを作った。仕事が大変だったとしても、「家に帰ればネズミがいる!」と思えば頑張れるし、ネズミに会うことが楽しみになる。ネズミは僕
僕を「僕」と言うのは、なんとなく無性別的で無垢な存在のような気がするからだ。 僕というのは、一般的に物語の中で男の子が使っている印象が強い。それよりも、人間ではない別の動物や物が擬人化された時に当てられるときの方が僕が「僕」と言う理由に近いのかもしれない。自分が何者なのかよくわからない、自分の存在についてよく知らない。そして、それが他者にも明確な時に、使われるような気がする。 僕は大人にも女性にもなれていない。僕という魂が、たまたま人間の器に入り込んで、その姿を与えら
雨の音は、部屋に静寂をもたらす。太陽の光を浴びないと、眠気が留まったままで、気持ちが沈む。仕方がないので、重い体を起こして、洗濯機を回しながら、お昼ご飯について考える。 せっかくの休日なので、普段できないことをしよう。ずっと、何か日々のご褒美を、癒される存在を欲していた。それで僕はネズミを作ろうと思い立つ。 方眼用紙を用意して、思い描いたネズミの型紙を考える。布とワタで何かを作ることは初めてのことなので、簡単な形にしよう。三面図を描いて、耳やしっぽなど体のパーツを分解
僕が見る悪夢は、突飛で空想的なものとかではなくて、この現実世界で、僕の身に起きていた過去の出来事の追体験だ。思い出したくない記憶、普段は蓋をして閉じ込めている気持ちが夢となって、反芻される。 よく見る悪夢の一つ。帰る家がなくて途方に暮れる。なんとなく心細くて、でも、何処か他人事で、時間を無為に過ごす。孤独に浮浪することには、慣れているはずだが、何故か突然、強烈なホームシックが湧き起こる。僕はどこに帰れば良いのだろう。様々な場所や人間の顔が浮かんだ。幼い時に親が与えてくれた
毎日、決まって朝が来る。地球や他の天体の都合で朝が来るのではなく、僕にとっての朝が来る。規則正しくルーティン通りに朝を過ごす。毎日同じような朝を繰り返すことで、ちょっとした違和感や不調に気付きやすくなる。少し眠くてだるくても、決まってその通りにする。精神や体の不調は、僕が僕らしく生活をする上で排除するべきものだから、敏感にすばやく察知する必要がある。そのための決まりなのだ。 時にそれは脅迫的で、奇妙なものに映るかもしれないが、僕はそのように朝を過ごす。それは、僕が何かに強
車窓から見える景色は、濃淡様々な緑色でいっぱいだ。今の時期はとてもよく晴れていて嬉しい気持ちになるし、カラッとした風も心地が良い。朝から気分がスッキリする。それでも、時々、鉛のように体が重かったり、どんよりとした気持ちが残っていると、落ち込んでいるのだと気がつく。 生まれ育った環境とは全く別の場所なのに、どこか懐かしくて、あたたかい気持ちになるのは何故だろう。田舎と呼ばれているこの街には、何気ない風景に心踊る瞬間が隠れている。 道端に咲いている花の写真を撮って種類を調べ