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 毎日、決まって朝が来る。地球や他の天体の都合で朝が来るのではなく、僕にとっての朝が来る。規則正しくルーティン通りに朝を過ごす。毎日同じような朝を繰り返すことで、ちょっとした違和感や不調に気付きやすくなる。少し眠くてだるくても、決まってその通りにする。精神や体の不調は、僕が僕らしく生活をする上で排除するべきものだから、敏感にすばやく察知する必要がある。そのための決まりなのだ。
 時にそれは脅迫的で、奇妙なものに映るかもしれないが、僕はそのように朝を過ごす。それは、僕が何かに強く縛られていないと安心できない、貧しい造りの生き物だからだと思う。それならば、その制約を受け入れて、合理的なものに縛られるのが良いと僕は思う。

 そんな僕は、最近やっと正社員になった。それに合わせて、朝のルーティンも少しだけ変わった。会社という組織は実に不思議なものだ。僕は自分が何者であるかもわからないのに、面接を受けて入社が決まり、少し経ってから配属されて会社の一員となった。何者でもないはずの僕は「設計をする人です」と言うことができる。

 僕にとって肩書きというものが大切なものなのかというと、そうではないが、他者に自分のことについて、説明する時のことを考えると便利になったと思う。
 何者でもない僕だったのに、何かをする人になれたことは、少しだけ嬉しかった。ずっと僕は、僕自身の存在を認めてもらっているわけではなくて、表面的な情報によって分類されただけの人間という存在だった。賢いとか可愛いとかセンスがあるとか、そういった特徴を持たない僕は、確かに存在はしていても、社会に認識されていなかった。

 僕には、性格も名前も正反対な従姉妹がいる。彼女のことを思い出すと、嫌な気持ちになる。記憶の中の彼女は以前、大企業のバリバリキャリアウーマンだったと誇らしそうに語る。従順な新入社員に立派な肩書きを与えて使い回す典型的なブラック企業だ。僕は羨ましいとは思わないが、とにかく彼女は、自分が優れた人間であること、如何にして立派になったのか、いつも自信満々に語り、ついでに僕のことを見下した。それから医者と結婚して、さらにエネルギーが増した。旦那はお金持ちだから海外旅行に行けるし、エステとネイルに通い、ヨガが趣味で…というように美容に投資をして、キラキラなタワマン生活を送っているらしい。
 その話を終えて満足すると、僕のことについて一応聞く。何を答えても僕は必ず親族の笑い物にされる。何がおかしいのか全く理解ができない。僕のことを思考や感覚に鈍くて、能力のない人間だと、決めつけた口調で、気分が良さそうに、僕を馬鹿にする。 
 そのような親族との会合は心地の良いものではないし、僕はあたたかな感情を失い続けた。だけど、僕に彼女たちを黙らせるための能力がないことは、物心ついた時からずっと変わらず、明らかだった。
 だから社会にとって価値のあることをしているということは、人間として生きる上でとても重要なんだと思う。僕が手に入れた肩書きも、きっと彼女たちは笑うだろう。
 僕にはもったいないくらいの、信頼できるユニークな友人がたくさんいる。もちっとしていてマイペースな恋人がいる。僕は気に入った場所で、落ち着いた会社で、優しい上司と面白い仕事をしている。
 僕を笑うならそれでもいいけれど、そんな彼女たちを僕も笑ってあげる。僕には僕の居場所があって、豊かな自然と平凡だけど安心できる暮らしがある。ユニークな友人と連絡を取り、もちっとした恋人と美味しいご飯を食べる。どれも彼女たちの短い価値のものさしでは測れないことだ。
 僕は僕らしく人生の彩りを追及する。肩書きだけでは表せないし、簡単に手に入れることはできない。彼女たちはいつか気づくだろう。自分たちが空っぽだということに。 
 朝の日差しを浴びて体を伸ばす。朝は等しく全ての人間に訪れる。

 人間は僕に、「何をする人なの?」と聞く。だから僕は自信を持って答える。「設計をする人です」

 

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