嘲笑の呪い
読んだ本について、あらすじに触れたり触れなかったり、自由に考えたこと、思い出したことを書きます。まだ読んでいなくて、新鮮な気持ちで作品を楽しみたい方は読まない方がいいかもしれません。
太宰治の「人間失格」をはじめて読んだ。
僕は、人間としての生きづらさを上手く言葉に出来たことがなかったので、「人間失格」を読んで、すっきりした気持ちになった。純文学というこの本に出会い、こんなふうに自分の気持ちを表現していいんだと知り、嬉しかったし、僕も書いてみたいと思った。
僕は人間が恐ろしくてたまらなかった。物心ついたときから、漠然と自分は欠陥品なのだという意識があり、常に自分を恥じていた。自分は愛されるに値しない存在で、家族の中で孤立していることを、外の人間に悟られないよう、必死だった。
5歳くらいになれば、ある程度、人間の話す言葉の意図がわかるようになり、悪意を知った。歳の離れた兄弟や従姉妹たちに囲まれ、出来ないことや知らないことを笑われて過ごすと、自分は出遅れた人間なのだと自覚した。
その頃の僕は、他人の気持ちがまるでわからず、他者の感情表現をよく観察し、自分の言動の答え合わせをしていた。また、自分の気持ちもわからず、感情を表現することが上手くできなかったので、歳の近い同性を参考に人間のフリをしていた。
そんな僕の様子は、言葉や物事を理解できてないように側からは見えていたようで、知能が低く、感覚に鈍い子供と思われ、それをいいことにまた笑い物にされた。
20歳を過ぎた頃でもそれは変わらず、従姉妹たちに散々嫌味を言われた後、「何を言われても、全然気にしないもんねー!本当に良いよね、鈍感で悩みがなさそう!」とまで言われたことがある。唖然と侮蔑をどう表現していいか分からず、とりあえずにっこり黙ってやり過ごす。それなのに、後から思い出して、ウジウジしたり、彼女たちに対して、普段思いつかないような暴言を吐きながら、暴力を振う夢さえ見る。
主人公も僕と同じように人間を恐れ、人間への求愛として、道化になり、人間にサービスをして関わりを持っていた。しかし、僕は人間に対し、道化になるどころか、友好的に接する気持ちになれず、心のどこかでは軽蔑し、自分の気持ちを開示することを恐れていた。そんな気持ちを隠し、自分を守るため、朗らかで優しく、当たり障りなく、親切に振る舞っていた。動機や理由は違えど、偽善の罪の気持ちには共感できたし、その場で適切な振る舞いを選んで、演じることができたので、見透かされることに心底怯えていた。
人間嫌いだった僕には、もったいないくらいの友人たちと出会い、家族と離れて恋人と暮らすようになると、僕は人間のことが好きになった。お酒を知ってから僕の心は解放され、抑圧と世間体に囚われ続けていた僕は、束の間の自由を知った。人間のフリをして、家族や社会に怯えていた僕は、新しい居場所で僕らしく生きられるようになった。
そして僕は、道化とは言えないけれど、人間に笑ってもらえるように考えたりする。だけど、バラエティ番組さえ見てこなかった僕には、笑いの才能なんてないので、多くの場合は無自覚に笑われている。でも、なんだかそれが心地よくて、みんなが笑ってくれるなら、僕は幸せだなって思ったりする。
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