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僕について

 僕を「僕」と言うのは、なんとなく無性別的で無垢な存在のような気がするからだ。
 僕というのは、一般的に物語の中で男の子が使っている印象が強い。それよりも、人間ではない別の動物や物が擬人化された時に当てられるときの方が僕が「僕」と言う理由に近いのかもしれない。自分が何者なのかよくわからない、自分の存在についてよく知らない。そして、それが他者にも明確な時に、使われるような気がする。

 僕は大人にも女性にもなれていない。僕という魂が、たまたま人間の器に入り込んで、その姿を与えられただけのような気もする。
 自分で自分のことを定義することができず、世間様が決めた人間像とは外れている。僕という不明瞭な存在に、適当にあてがわれた外殻なのだから、当然、外殻に合った振る舞いなんて、できるわけがない。
 というわけで僕を「僕」と呼ぶのはぴったりな呼び方なんだと思う。もちろん場面によって、しっかり適切な一人称を使うことだってできる。だけど、心の中で自分を指すときはいつだって「僕」とりわけ「ぼく」なのだ。漢字の方がなんとなくわかりやすいので、文面ではそのようにしているが、実際には「ぼく」なのだ。

 この外殻は元はというと、それに相応しい人間の魂が入っていたのかもしれない。そしてある時、魂と肉体との結びつきが薄ぼんやりとしてきて、魂が出て行ってしまった。そう考えることさえできる。

 大人になることが嫌で嫌で仕方がない。性別を手にした気持ちになるからだ。僕自身がそう思っていなくても、社会は僕に"成人した女性"としての生き方を求める。だからといって、男性になりたいわけでもない。
 砕けたガラスの破片を踏みつけるような思春期を、ドロドロな腐乱臭が立ち込めた掃溜めのような青年期を、過ごしてきてしまったからもしれない。どちらも性別が理由で非常にグロテスクな経験ばかりだった。
 だから、ただ無邪気で素直で、性別がまだ個性だった時の子どものような存在でいたい。
 それは人間が送る社会生活からの逸脱を意味する。まだ僕は、社会に相応しい人間としての責任を背負うことができない。
 世界は恐ろしく残酷で、僕にはまだ、知らないことがたくさんある。僕は成人してから4年ほど経つけれど、止まっていた時間を取り戻すように、毎日を送っている。

 


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