
『嵯峨野明月記』古活字本「嵯峨本」を巡る3人が求めた<美>とそれぞれの生き様
発行年/1971年
歴史長編『嵯峨野明月記』は、戦国から江戸初期までを生きた3人の文化人、本阿弥光悦・俵屋宗達・角倉素庵(与一)によって刊行された「嵯峨本」創作に至るそれぞれの心情を、各人のモノローグという形で描いた作品です。タイトルに「古活字本」と謳いましたが、本阿弥光悦や角倉素庵の書写した文字を活字に彫り、それによって刊行物の量産化を図るという手法は、まさに活版印刷のそれでした。しかし、このときの活字は現在とは異なり、木材に彫られたものでした。加えて印刷する紙(料紙)にも様々な手を加え、作られた本自体が第一級の美術品とも見做されるものであったために手間と費用がかかり過ぎ、技術が発展することなく衰退してしまったのです。これによって、以下のサイトにも書かれていますが、我が国では活版印刷の萌芽ののちに一枚の板木に絵柄を彫って刷り上げる手法が生まれるという、世界でも稀な逆順現象が起こったのでした。グラフィックデザイナーとして印刷にも深く関わったことがある者として、ここは少しく触れておきたいとおもい、やや冗長にはなりましたが、まずはレビューに先立って押さえておこうとおもった次第です。
1.本作のモチーフ「嵯峨本」と、関わった3人及びその他の登場人物
①「嵯峨本」とは
初めに「嵯峨本」とは何ぞや? という点ですが。
上記に書いたように、木材に彫られた活字を使用して量産された美麗な刊行物(書籍)のことです。もともとは吉利支丹が聖書の教えを広めるために印刷物を持ち込んだのが最初で、天草の吉利支丹学林というところでは、聖書の他にも平家物語なども印行していた。それを目にした角倉与一(素庵)が、自分が出版したいものを企画、料紙に俵屋宗達の描いた下絵を使用して刊行したのが「嵯峨本」なのです。与一が「嵯峨本」を発案する場面はこうです。
そのとき何の前触れもなく、突然、わたしの眼は、駿河屋が置いていった慶長勅版の仏典や伏見版の六経にひきつけられた。その書籍は、いずれも朝鮮の活字版による新しい印刷で、装本、料紙、挿画にも一段と豪華な趣を加えたものだった。駿河屋宗仁の話では、南蛮の印刷術から学んだ平仮名の木活字による書籍もすでに吉利支丹のあいだに出まわっているらしく、そのうち天草の吉利支丹学林で印行した数冊が、わたしの手もとにも届いていた。
(略)
わたしは異国渡海の興奮もあって、何となく、そうした書物を取り上げ、ぱらぱら丁を繰ってゆくうち、ふと、わたし自身が、こうした書物の印行に手をつけてみたらどうだろうか、と思った。朝鮮版や天草版のような新しい活字組みで版をつくり、そこに挿絵を組みこんだら、いままでより安く多量の書物を供給できるのではないか⎯⎯わたしはそう思ったのである。
ちなみに「印刷」という言葉は主に明治以降に使われ始めたもので、本作の舞台となっている関ヶ原以後江戸初期にはまだなかったと思われますが、辻邦生さんの歴史小説においては以下のレビューの中の【今回のことば】にあるように、そういった点はあまり意識されていません。というよりむしろ、現代人に普通に通じる言葉を使用することで、できるだけ伝わりやすくしたいという思いがあったようです。
②「嵯峨本」制作に関わった3人の主人公
本作は3人の登場人物によるモノローグを、一の声・二の声・三の声という表現で順番に並べることによって、「嵯峨本」制作に至るまでの情緒をあたかも協奏曲的に描き出そうと試みた作品です。時代背景はそれぞれの登場人物によって、自身の社会との関わりの中で語られ、想像される、そういった形が取られています。3人の主人公は以下の通りです。
一の声 本阿弥光悦
光悦の家、本阿弥家は、刀剣の研磨・浄拭(ぬぐい)を生業にする家で、本来光悦も家業を継ぐべき立場にありましたが、書家として名をなした光悦は家業を弟や息子に譲り、陶芸や茶湯に浸り込んでゆくことになります。刀剣を扱う家としてもともと武家や公家とも深い関わりがあり、幼い頃から家業を継ぐ者として鍛えられた光悦には審美眼も備わっていたため、文化人としてプロデューサー的立場に立ったのもごく自然の成り行きだったのかもしれません。
二の声 俵屋宗達
3人の中でもっとも史料が少ないのが俵屋宗達です。宗達といえば、一般には「風神雷神図屏風」が有名ですが、俵屋は絵屋という、扇や提灯、灯籠などに絵を描く、いわゆる職人の家でした。本作では宗達も絵師のひとりという職人として描かれ、絵屋を仕切ってゆく代表者としては捉えられていません。その代わり、与三次郎という人物を宗達が子どもの頃からいる職人頭として創作し、絵屋のことは与三次郎が仕切るという形を辻邦生さんは取られました。その分、宗達には自由に、思うがまま絵を描かせています。
「嵯峨本」の中で宗達は料紙に下絵を描くという、美の基盤とも言える部分を担うわけですが、宗達の、自由闊達で型に嵌まらない考え方が新しいものの創出には必要だと、辻さんは考えられたのではないでしょうか?

三の声 角倉素庵(与一)
3人の中で心情的に一番複雑なのが角倉素庵です。素庵の父は角倉了以という実業家で、自分で新たな仕事を作り出しては事業を拡大してゆくという、力のある人物でした。そんな了以の息子に生まれた素庵は、若い頃から父の仕事を継ぐ者として厳しく鍛えられます。素庵も安南交易の道を開くなど、後継者として力を発揮しますが、本心は文化人として書や学問の道に生きることを望んでいました。そこに深い葛藤を抱えながら、素庵は実業家として仕事に邁進してゆくのです。そんな素庵の、実業家と文化人の二つの顔の狭間に発案されたのが「嵯峨本」だったというわけです。
③3人に影響を与えた人物
3人にはそれぞれに影響を受けた人物が設定されています。
本阿弥光悦の場合/妻、志波左近、今枝内記、土岐民部とその女など
志波左近と今枝内記は光悦が加賀前田家と繋がりを持つのに重要な役割を果たした武士たちで、土岐民部は明智光秀の謀反に関係のあった人物です。光悦は、これらの人物たちとの関わりによって時代の変遷をほぼ正確に掴んでゆくわけですが、彼は常に時代の周辺にいて、それらの人々と政治的な関係を持とうとはしません。そこが、家康暗殺の嫌疑をかけられて切腹を賜った古田織部との違いです。
一時期光悦は京を離れ、加賀で家業の刀剣の研磨・浄拭(ぬぐい)の仕事に就きますが、その場面では次のように描かれています。
私はまだしばらく加賀にいて、父にしたがって、刀剣の鑑定、磨礪に励むであろう。また京に帰るであろう。また別の仕事をはじめるかもしれぬ。だが、そうした所業を一つ一つ加えていっても、結局、一つの玻璃の手箱のなかに入ったままなのだ。手箱に入ったまま、空しくどこかへ消えはてるのだ。といって、私は何をしても、所詮、手箱のなかの自分の所業を余分に加えたにすぎず、手箱のなかに⎯⎯この空しさのなかに⎯⎯一定の宿命のなかに⎯⎯入れられていることには変りないのだ。人間の所業はすべて、この一定の宿命という手箱のなかに入れられているのだ。 (略) そうしてそれに気がついたとき、私は、その手箱の外に立って、その手箱を眺めているのだった。そうなのだ。私は自分ではそうする意図なしに、その手箱の外に出てしまったのだった。その外から、自分の生涯のはじめから終りまでを、手箱に入ったものとして、眺めているのだった。
また、その妻は彼の従妹で彼よりも歳若く子供じみて見えたりもしますが、その実芯はしっかりしていて、光悦が宗達の下絵が描かれた料紙を知るきっかけを作ることにもなります。早くに亡くなったことも、精神的な影響を与えた点のひとつでしょう。
俵屋宗達の場合/与三次郎、狩野光徳、又七
与三次郎については先に書いた通りです。
狩野派に光徳という人物が実際にいたのかどうかはわかりません。光徳は、今で言うところの写実主義を代表する絵師として、宗達たちの前に現れます。師、狩野光信に破門されたという形で俵屋の絵屋に雇われるのですが、あるいは本作の創作かもしれません。
光徳は見たものを見たままに、余すところなく描き尽くしたい、そんな望みを抱いています。それは宗達とは対極にある考え方でした。宗達が絵を描く思いとは、次のようなことでした。
おれにとって、絵を描くとは、ただそこに在るものを写しとることではなかった。そうではなくて、自分のなかに溢れてくる思いを、何でもいい、それにふさわしい形や彩色によって⎯⎯心のなかにすでに刻印されている形や彩色によって、受けとめてやることだった。
光徳は叶わぬ望みを抱いたまま病で死んでゆくのですが、こうした、目にするものすべてを描かなくてはすまないという光徳の姿に、宗達は、絵を描くことの空しさを感じてしまうのです。そこから新たな展開へと開けてゆく、そこが宗達の面白さです。
又七はほとんど最後になって俵屋絵屋に入ってくる若い職人です。全体のストーリーの中ではその出現は唐突であり、どうやら宗達に「風神雷神図屏風」を描かせるためだけに用意された人物のようです。又七の絵は絵の具をごてごてと塗りたくった、色彩のぎらぎらと賑やかな(宗達の言葉を借りれば)おぞましい感じのするものでした。それまで絵といえばやはり公家や武家、それ以外の富裕層に向けて描かれる、花鳥風月を中心とした風雅なものでしたが、又七は、それはもう時代遅れだと言うのです。
「あたしに言わせれば、俵屋の絵は、もう盛りを過ぎたって感じですな。世間の気分にこたえるものを持っちゃいませんな。」
「それはどういう意味だ」
「世間じゃ、あたしの絵を好んでるんですな。いまの人はね、こう、どぎつい、胸の底に、突き刺さってくるような絵を求めているんですよ。そんな取り澄ました、銀だか、金だかのべた塗り絵は、もうはやらなくなると、こう、あたしは見ているんですよ」
その言葉によって宗達が煩悶し、「風神雷神図屏風」を生み出したということではありません。又七の絵を否定しつつ、風雅なまま新たに色を多用すること⎯⎯そこを追求した結果が「風神雷神図屏風」だったと、本作ではそのようにしています。
もちろんこれも本作における創作でしょう。ただそうでもしないと、それまでの扇面絵や嵯峨本の料紙下絵に比べて「風神雷神図屏風」の持つ圧倒的な迫力について語る術がなかったのかもしれません。ただ、又七の登場が唐突だったように、最後近くになって描かれるこの場面は、やはり唐突すぎる感が否めない、僕にはそんな気がしました。
角倉素庵の場合/父角倉了以、藤原惺窩
父角倉了以は、茶谷四郎次郎、後藤正三郎と並び京の三大豪商のひとりと謳われた人物で、先にも述べたように、父であると同時に実業家としての師であり、巨大な目標でもありました。
それとは逆に、儒学者藤原惺窩は素庵にとって学問の師であり、事業と学問のあいだで揺れ動く素庵の気持ちを受け止め、あるべき道を示してくれた人でした。
こうした素庵の思いは、規模の違いはあれ、僕もグラフィックデザイナーとして仕事をする中で読書に時間を割くことができなかった時期があって、大変よくわかります。
角倉素庵はハンセン病に罹って命を落とすのですが、罹患する経緯も唐突にすぎるきらいがあり、宗達の「風神雷神図屏風」由来に関する出来事と合わせて、僕の感想として受け止めていただければとおもいます。
その他/経師屋宗二
経師屋とは、大きなものは襖や屏風、小さなものは扇に至るまで、紙と名のつくものすべての貼り替えや絵付けなどを生業にする、言わば<紙のプロ>です。「必殺仕事人」をご覧になった方ならTOKIOの松岡昌宏でご存知かもしれませんね。
そんなわけですから、宗二は公家の屋敷から紙問屋までどこにでも入り込むことができ、上記の3人すべてから信頼されていました。この人物も創作だろうとはおもいますが、印刷物を作る上で欠くことのできない紙のプロ、宗二はまた、本作においても必要不可欠な登場人物のひとりなのです。
2.本作のテーマ
まず述べておきたいことは、『嵯峨野明月記』中公文庫版の解説で菅野昭正氏が、
『嵯峨野明月記』の本当の主人公は《嵯峨本》である。ここでは、すべては《嵯峨本》の美しさから出発し、《嵯峨本》の美しさへ帰ってゆく。はじめに《嵯峨本》ありき。
とおっしゃっている点についてです。
これは僕自身の考えですが、『嵯峨野明月記』と題されたこの作品において、主役は「嵯峨本」ではありません。「嵯峨本」はあくまでも美の象徴であって、それが他の何か⎯⎯例えば尾形光琳の「燕子花図屏風」⎯⎯であってもよかったかもしれない。
ただ、辻邦生さんが書きたかったのは、
社会及びすべての<生>を支えるという意味での<美>
であり、その<美>を体現する人物⎯⎯この場合は本阿弥光悦⎯⎯だったとおもうのです。それは、本作が本阿弥光悦のモノローグで始まり、最後、光悦のそれで終わっていることからもわかります。そして、光悦には最後にこう語らせているのです。
ともあれ、私が残した仕事は、朝日の差しこむ明るい部屋のように、幾世代の人々の心のなかに目ざめつづけてゆくであろう。私はいずれ<死>に委ねられ、藤の花のようにこぼれ落ち、消え去るであろう。私の墓のうえを落葉が覆うであろう。紙屋川を吹きあがってくる風が音をたてて過ぎてゆくであろう。墓石の文字も見えぬほどに苔むしてゆくであろう。だが、そのときもなお私は生きている。あのささやかな美しい書物とともに、和歌巻とともに、宗達や与一や宗二の誓いや友情や誇りや苦悩を織りこみながら、生きつづける。おそらくそのようにしてすべてはいまなお生きているのだ。花々や空の青さが、なお人々に甘美な情感を与えつづけている以上は、それらのなかに、私たちの思いは生きつづけるのだ・・・。
ここにあるのは、以前こちらでご紹介した、ギリシャ旅行で辻邦生さんが得た啓示に繋がる考えであり、芸術についての思いです。
そして『安土往還紀』を書く中で、そんな激しい時代の変遷の中でも変わらぬ美を生み出そうとした3人の芸術家たちと、人の生き死にや歴史の大きな渦を支えるように在り続ける芸術作品に、思いを馳せるに至ったに違いありません。『嵯峨野明月記』は、そのようにして生まれた作品だと、僕はおもうのです。
3.参考までに
実は本作においては、辻邦生さんがフランス滞在中に綴っておられた日記『モンマルトル日記』の中で、その制作経緯について克明に語っておられます。それを読むと、完成までの様子が(生みの苦しさも含めて)手に取るようにわかります。

また、エッセイ集『風雅集』に掲載されたエッセイでも、本作について語っておられる文章があり、ここで僕が感想を述べるまでもなく、辻さんの創作意図を知ることができます。
しかしながら、こちらではあくまで僕の読書レビューとして、それらに関係なくご紹介することを第一義としました。辻さんご自身は登場する3人を3人とも主人公として語っておられますが、僕が受けた印象では、あくまで本阿弥光悦が書きたかったのだろう、というのが一番です。
ネットでの一般の方による書評で、一番史料の少ない俵屋宗達が一番創造しやすかったのでは、というのがありましたが、それにも賛成できません。逆に史料が足らない分、宗達についてはかなり悩まれたのではないか、というのが僕の考えです。それは上記に述べたように、「嵯峨本」から「風神雷神図屏風」に至る経緯があまりに唐突にすぎる点からも感じられるところです。
そうは言っても、宗達については扇面画から嵯峨本料紙下絵に至るまでに、平清盛を始めとする平家一門が厳島神社に奉納した「平家納経」と呼ばれる経典の修繕という仕事が世に知られています。この「平家納経」の修繕に宗達が関わる部分は本作の読みどころの一つであり、その仕事に関わったことで宗達の仕事に対する心情に変化が現れる部分は、辻さんはかなり力を入れて書かれたのでは、と、僕にはそう感じられて、本作の中でも好きな部分でした。
【今回のことば】
(上記の又七が絵屋を出て行ったあと、宗達が又七に対しておもう部分です)
この世のことは、すべてが、道理に背き、何一つとして、納得ゆく、正しい道すじのものはないのだ。お前さん(又七)はそれを不正として憤怒し、憎悪し、呪詛した。だが、この世が背理であると気づいたとき、そのとき生れるのは憎悪ではなく、笑いなのだお前さんが蒼ざめた顔をしておれを睨むのが眼に見えるようだ。だが、この世の背理に気づいた者は、その背理を受けいれるのだ。そしてそのうえで、それを笑うのだ。だが、それは嘲笑でも、憫笑でもない。それは哄笑なのだ。高らかな笑いなのだ。生命が真に自分を自覚したときの笑いなのだ。
今回もお読みいただきありがとうございます。
他にもこんな記事。
◾️辻邦生さんの作品レビューはこちらからぜひ。
◾️大して役に立つことも書いてないけれど、レビュー以外の「真面目な」エッセイはこちら。
◾️noterさんの、心に残る文章も集めています。ぜひ!
◾️他にもいろいろありの「真面目な」サイトマップです。