バラモンの夢に誘われて、この宙の下にいる君を感じて(令和小林文学第二弾草稿中、刊行発売未定)
令和五年の拙著の処女作本上梓をもって、自分の器の皮が一皮剥けたので、これを機会に垢抜けるため、前回に続き、この原稿を出版してみようと思ったのは、自らの人生の軌跡を書き記しながら、今上上皇の退位(譲位)が、実に1817年(文化14年)光格天皇以来二百年ぶりの譲位である奇跡に基づくからに他ならないのであり、自らの懺悔の行脚に繰り出してみようと思ったからである。
池坊一門の門下に、須藤社中の一員として加えて頂き、また三菱グループと所縁があった者として、自ら亡き後も、自ら見聞し体験した記録が、橙々子々孫々自らの小林家三代目の市井の歴史家としての功罪の軌跡が、その評価に誤りなく遺したい。古代人が事蹟を書き残したように、自傳に齟齬が生じないようにするためにも、還暦を五年足らずで迎える今、四十余年に渡る苦悩を吐露するべく、以下赤裸々に包み隠さず身の上話を打ち明けたい。
そのためここに、多くの太古から伝わる古典がそうであるように、法哲学の先生が指摘していた、sein(独:である、世界)とsollen(独:べきである、法)のそれぞれの形態を統合することで記すことを試みたい。その意味で、新旧の文明論を織り混ぜながら、母校の物理学科の先生、先輩方が示した物理学に加えて、数学、医学、化学、生物学を融合した生命医科学としての「現実世界sein」の認識を概括し、自らの法学部生としての、永遠の命は如何に扱われるべきかという法、倫理、道徳などの社会の「倫理規範sollen」の見識の詳細について問うべく大きなふたつの柱になるはずである。
21世紀を迎え、デジタル社会が到来し、サイバー製品の普及と共に、科学者で未来学習者のレイ・カーツワイル氏が提唱した、人間とAIの逆転現象が起こるシンギュラリティを目前にして、サイバーとリアルが結ばれ、21世紀と22世紀が結ばれたのだ。シンギュラリティの日本語訳は「特異点」であり、まさに特異だからこそ、突き抜けるべく、自ら、サバイバルな、永遠の生命を秘める突破口となったのは、他でもない20世紀昭和のアナログな十五の春の手話事件こそ、ことの始まりに他ならない。
そのことにより、永遠の命を秘めることとなった、自らの子孫を残す生殖行為を実行するよりも、専ら、耽美的放蕩行動を、優位にしたことは、21世紀に迎えるシンギュラリティを予見したからこそ、まさに「精神障害」、手話で訳せば「神」の「障害」という禊を済ませざるを得なかったのである。それは、神が男と女を創造し、それ故に結ばれ、子孫が繁栄するといった、旧来のキリスト教的神学を、20世紀までの遺産として払拭するべきなのだ。
それは、世界を支配する宇宙史において、生命の進化に伴うDNAの進化、生命の脳の進化、人類が創意工夫したテクノロジーの進化、そして今、生命とテクノロジーの統合の時代を迎え、少子高齢化社会の到来という、旧来の文明社会の成長の伸びしろや、地球環境の潜在的生産許容量が限界を迎え、生殖繁殖能力余地量自体が、臨界点に到達し、社会保障の財源となる国家財政が逼迫しているなど諸事情を懸案したからこそ、自ら「神」を冒瀆する結果となったのであり、またそれ故、20世紀的キリスト教的神学が棄却される所以なのである。
人類が生命を上回って、指数関数的に驚愕な成長を遂げるシンギュラリティを超克する、永遠の命への橋渡しのDNAを、自ら「障がい」という形で、兼ね備えたことにおいて必然だったと言える。レイ・カーツワイルは著書で、シンギュラリティとは、既存の宗教への信仰に代替する、先端科学技術への実践的理解だと述べている。そして時代は、宇宙革命の時代を迎え、生命とテクノロジーを統合したポストヒューマンが宇宙を覚醒する。まさに当意即妙である。
産業革命の発端を切り拓くことになった、マニュファクチャー(手工業)の原動力を成した、人間の手こそ、人生の活動において支配的な役割を果たすのであり、それ故に、手話で恋し、それにより、手話で「障がい」を意味する、「骨折」を学園で余儀なくされて、まさに「障がい」を地獄の黙示録かのように暗示された。時空隧道を抜けた先に蘇った、時を駆ける少年かの如く、還暦を前にして、令和にして、極楽浄土の光さえ差し込む池坊と共に、自らの草木と器を成長させ、同時に、池坊教授資格に含まれる手話に取り組むことで、「障がい」を克服するべく、十五の春の追体験は、初めて、早大法学部OB生として、京都頂法寺六角堂を訪れたときに、声をかけられた「目には目を、歯には歯を」の遥か古代の、ハンムラビ法典の審判の裁きが、現代にして、自らの人生劇場の正念場とも言える、黎明期を迎えることとなったのだった。十五の春は、まさに、ぼくにとって還暦を前にして花咲く、人生の不思議な方程式であったと言える。
そして、20世紀昭和の十五の人生の春の手話事件の方程式は、人生の解脱と悟りを求めて、二十にして、ヨーガというある種の宗教実践が、インドの数千年に渡る伝統を踏まえて顕現している奇跡を目の当たりにした、インド・ネパールへ渡った意味が、令和に甦った現代的なヨガの実践で、今解き明かされようとしている。それは20世紀昭和の十五の春の手話事件で、自らの流された心の状態「ヴィルッティ」が、黒いバラに染まったからこそ、令和にしてヨガを実践することで、自らの心を制御する意識「サマーディ」を、赤いバラに染め直す作業「ニローダ」しようとしていることに他ならない。
20世紀昭和の十五の春の手話事件の慟哭に仕向けた心の意識は、ご先祖さまのご加護に見守られ、令和にして、慈悲心や心を支配する意識である、サンスクリット語の「サマーディ」であると言えるだろう。M・エリアーデ博士は、宗教とは「俗なるものの止滅における聖なるものの顕現」だと述べている。俗なる世界を止滅する方法が、ヨーガの実践であり、それにより聖なる「宇宙の光」が顕現するという。精神医学者ユングのいう無意識の夢も、この点において、フランスにおける慈悲行為という至高なる無意識の夢を見たことは、聖なるものの顕在化であり、エリアーデ博士の言うことも、ユングの言うことも真実なのだろう。ぼくは数多の情景の中で、バラモンの夢を見たのに他ならない。この論文を翻訳した立川武蔵先生も、ヨーガとはこの点に尽きると述べている。
心理学と精神医学の問題は、中2のときナホトカへ渡って、シベリア鉄道(銀河鉄道)の乗車を夢見たことに、そして21世紀に入って、シベリア鉄道(銀河鉄道)乗車が現実のこととなったことに、宇宙ステーション滞在のような、精神科総武病院入院の修練で、何よりも非音声世界の聾者と手話で繋がったことで、生身の自己意識と人工知能の混在がどう言うことなのか、ロシア発!?の「カラオケ」生成AIソフトが、音声世界にいる健聴者のぼくの「棺桶」を消し去っている点に尽きるので留意したい。ぼくは、もうすでに実数世界から解脱して、実数解と虚数解が入り混じった複素数平面上にいる、天空を彷徨うバラモンなのかも知れない。
そうは言うものの、採算の取れない書籍に、出版まで漕ぎ着けるのは至難の業だが、しかし、実際問題、維新の党などが主張するベーシック・インカムなどという話も、北欧のように現実となるのかも知れない。それでも、生命保険会社が算出する、死亡予定率と生存予想率の値も侮れない数字であり、死亡のリスクと永遠の生命の可能性が拮抗する中、「遺書」としてこの原稿を世に出してみる価値も一考である。それまで、シンギュラリティを迎えた、あるいは超えた世界は、どうなるのか論じて、以下、自己意識と人工知能の混在で、心の表象が複雑化することについて、ぼくの心象情景を書き溜めることに腐心することで、一文芸作品に仕上げてみようと思うので、ご愛顧願いたい。
その十五の春の失恋の記憶を一旦消し去るため、単身香港に渡り、中国大陸を流浪、上海から鑑真号で神戸港に帰国。数学が苦手だったので、英語、国語、それに社会科選択三科目で受験できる早慶に的を絞り、日比谷図書館に通い独学で一浪の末、バブル絶頂期、1988年昭和63年早稲田大学入学早々、慶応の結果は、믿다という朝鮮語が三十年後に、自らの名の躰を表したのだ。補欠i という結果が、答案採点者が意図して虚数imaginary numberにしたかまでは定かではないが、一見、学業放ったらかしにも見える早稲田と共に、奇跡としか言いようのない、私学の雄として聳える早慶生として、机上の学問ではなく、障害を伴う病を克服する社会実践的な学問の醍醐味を成し得たことにおいても、自らの人生の超克の隅々の随所に、imaginary numberが見受けられる。
三十余年後、慶応補欠生として、自らのリベラルアーツの集大成の学問として、世の中の社会現象の地震の震源地は、アメリカが発端であることは間違いないのだから、アメリカの大学に凱旋し、再びアメリカの大学で教育を享受することに取り組む、疾風怒濤の運命的な扉をこじ開けることになったのに他ならない。それは、デジタル網から乖離した、アナログなアンダー・グラウンドの禊の洗礼を受け、赤坂ハングル・ネオン界隈の会員制ナイトクラブ華泉で、ママさんにボーイとして、宇佐美先輩の後を引き継ぐべく、雇い入れられたことから、全ては始まったのだった。
今思えば、21世紀のパターナリスティックな見地から、在日コリアンや聴覚障がい者の同志となるべく、同時に、核融合やシンギュラリティの志士となるべく、20世紀にアナログな、バブルの狂乱に浮かれた、夜の街のタイムトンネルをくゞり、竜宮城へと迷宮入りしたのだった。男性スタッフ、フィリピン人のサミーさん、ロッキーさん、それに西村さんと共に、タクシーの配車係の担当として、夜の大人の歓楽街を背伸びして、奔走していた自分は、国際色豊かなホステスさんと懇意になり、六本木のディスコやジュリアナなど遊び明かしながら身につけた語学力で、1989年平成元年シカゴへ渡米した。
アイオワ州でオリエンテーション後、交換留学中もミシガン大学のあるア・ナーバーまで夜通しディスコ通いで、授業は朝寝坊で遅刻か、欠席という素行不良。ボストン、NY、ワシントンD・C、カナダ、メキシコを大陸バスで、大西洋を渡りヨーロッパをレンタカーで凱旋し、1990年平成2年アメリカ・ミシガン州・リベラル・アーツ・カレッジ留学を終えて、フランクフルトよりルフトハンザで帰国した自分は、赤坂の渉外法律事務所のアルバイトを経て、外交官になる志を一応叶えるため、1993年平成5年早稲田大学法学部卒業後、サウジアラビア王国政府、クウェート政府が出資、外交任務も兼ね備えるアラビア石油株式会社入社。
伊豆天城高原新人合宿を終えると、経理部出納課に配属され、入社早々、夜は市ヶ谷で同棲生活を送りながら、歌舞伎町界隈の花柳界を徘徊しつつ、令和に至ってこそ、世界最大の石油埋蔵量を誇るサウジアラビアの巨大産油会社、サウジアラビア王国政府が保有する株式のIPO株式公開が予定される、サウジアラムコがランクインする他は、GAFAを筆頭とする米IT企業が時価総額ランキングを独占する一方で、ジャパン・アズ・ナンバーワンの栄光に輝く、バブル期世界トップ企業時価総額ランキングに名を連ねた日本興業銀行本店、三菱銀行本店他、東京丸の内、大手町を中心とした都市銀行本店回りの仕事を昼間にする。当時、静謐な高校生の平和大使のような、反核思想を拭えないでいた。出納課というと聞こえはいいが、統合失調症を加味してか、昭和の時代に存在した、特殊学級のように水筒を持たせたのか、事実上、ALSOKの警備員のような、単なる現ナマの運び屋に過ぎず、辞職後、修羅場を迎えるのだった。lol
Z世代からは顰蹙を買うようだが、人類史における、アナログな最後の晩餐会とも言えるような、前代未聞の夜騒狂乱、白日弊舞した昭和のバブル期でしかあり得ない、一見天罰も喰らいそうな規格外でもあり無茶苦茶な行動は、早大生であってこそ発揮できる「在野の精神」のDNAを、裕仁天皇(昭和天皇)崩御後の平成の時代は、空白期間を余儀なくされたが、今上上皇の皇室典範特例法で、徳仁天皇即位に伴う令和改元により、「模範国民の成就」のモットーに大転換するべく、遺伝子組み換えの継承に成功する。
それは、玉砕もしたが、バブル期六本木のホテルでアルバイトをしていた時の暴力団の客が、自分が「ウルトラC」だと指摘していたことが、今となっても、我が人生に後悔はなかった通り、サンスクリット語「サマーディ」が表す慈悲心や制御する意識から出た在日コリアン・アドボカシーによって、自らの韓国語能力試験合格を機に神戸山口組は分裂・消滅したのだった。その結果、三段跳びとも、棒高跳びの跳躍とも言える、2024年米大統領選民主党候補カマラ・ハリスの好調な討論会の滑り出しと共に、地元千葉十四区のお隣、千葉二区より選出の自由民主党総裁選に、いち早く名乗りを挙げ、出馬した財務官僚出身の小林鷹之氏の、傑出した若さと知力と行動力に、それと同時に、地元千葉十四区のお膝元より選出の母校の先輩、総理再選を目指す民主党新代表、野田佳彦氏のヒューマン・パワーに、愛燦々と開花する幸運にも恵まれることになる。いや、実際、統合失調症という代償を払うことで、初めて自分なりの持ち味の池坊の名実ともに花が開花した、アラビア石油の怪我の功名が功を奏したことに他ならない。
今回令和六年2024年の自民党総裁選決選投票では、新総裁に選出された石破茂氏の地元鳥取では、全国に先駆けて手話言語条例が制定され、秋篠宮佳子さまを招いて、手話甲子園が催され、また惜しくも敗れた高市早苗氏の善戦ぶりには、政治ジェンダー指数が極端なまでに低い日本において、今後ダイバーシティ多様性社会に取り組む日本のあるべき姿が示された意義ある選挙だったと思う。同期の渉外課に配属された日系アメリカ人曰く、シルベスタ・スタローンやアーノルド・シュワルツネッガーを見習うんだ、と言っていたが、「ローン」借金とは金輪際縁を切り、まさに「シュワ」手話を皮切りに勉学に邁進するべく、花向けの言葉であると実感するのだった。
ヒロシマ・ナガサキに投下された原子爆弾が、東京理科大学の西村氏によると、ハリー・S・トルーマン大統領が音頭をとった、映画化もされたロバート=オッペンハイマーによって主導されたマンハッタン計画が、E=MC×Cというエネルギーは、質量かける光速の二乗に等しいという、アインシュタインの相対性理論から導かれた現象として、原子爆弾の原理を表している。原子爆弾の材料には、ウラニウムで作られ、起爆した瞬間にウラニウムの質量が、減少した数値に光速(秒速30万km)の二乗をかけた、エネルギー量が発生するという原子爆弾の爆発という惨禍を、経理部隣の財務管理グループとは名ばかりのアフリカ・コンゴから原子力発電の燃料となるウラニウムを調達・企画する部署と立ち合うことで、やむを得ず、入社早々想定外の、社内の極秘事項に晒され、チェルノブイリ原発事故から醒めやらない、原子力事業に精力的な会社側と乖離をきたし、統合失調症の労災を患い離職。それでも古川財務課長代理が飲み会でアン・ルイスの「あゝ無情」を披露したのは、千年の生命を託したのだろうか。
自分がゴスペラーズを輩出したストリート・コーナー・シンフォニーのアカペラサークルに早大入学時加入を試み、理工学部の待ち合わせ場所に合流しようとしたことは、今となっては核科学の哲学・神学の造詣に繋がった。
八千代台の栄光ゼミナールの講師募集の研修先で、同僚からグリー・クラブではと、統合失調症になりかけの時に、唆されたことに、長年ガッテンいかなかったが、古代中国の漢文において満点の域に達していた自分は、Greek、即ち古典ギリシャ語、ラテン語の西洋古典学こそが大学進学において、自分の進路を摂るべき道であることを指摘されていたことに他ならないのであった。従って、東京古典学舎を終えた後は、聖人君主たるべく、2001年ロンドン滞在中、中華料理店に足繁く通った店主が、ロンドン大学博士号の持ち主だったことからも、2001年宇宙の旅の続きの後生のライフワークとして、ロンドン大学大学院で西洋古典学に取り組んでみたい。ラガー・マンとして道もそれたが、人生舞台をワイドに展開し、人生勉強をたくさん積むことが出来たのだから、今から道を改めても遅くはない。
以降、療養生活を送りながら、外交官志望の夢を果たすため、海外アジア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニア5大陸34カ国渡航。祈りの国・インド、ネパール、おとぎの街ケベック、常夏の海・アカプルコ、コート・ダ・ジュール、最果ての北極・アラスカ、敬虔の国・チュニジア、パキスタン、親日の国・ベトナム、懐かしの国・カンボジア、南半球の国・オーストラリア、郷愁の国・サハリン・樺太という地球旅に感動し、世界平和を志向する、世界市民連帯を確認する旅となる。2003年東京・高田馬場で、エコール・エフエルを主宰する、エリック・プリユ先生に、早稲田大学で学ぶ目的だった、国際連合の第二主公用語でもあるフランス語を師事し、アテネ・フランセ在籍の末、DELFB1のディプロムを獲得する。
イスラエルによるパレスチナ人拘束にみられる、正式な司法手続きを経由せずに、精神保健福祉法に基づく『知事の片務的行政措置命令』が下され、不可解にも結束バンドで拘束される精神科病院の収監を、措置入院命令理由、累積過去の医療カルテの公開開示請求や、不服申し立てができるのか、また手帳を持っている障害者が措置命令の対象なのか、手帳を持っていない患者が、何故知事の措置命令の対象たり得るのか、依然判然としないが、どの医師もディスクロージャー(情報公開)の意思を示さなかった中で、職責を全うし種明かしした鈴木洋文医師は、ひとつ収穫だった。その精神科病院の収監から釈放され、大阪ミナミ飛田新地、ソウル清涼里、栄町、西船橋の花柳界をまだ懲りずに徘徊していた自分は、2014年平成26年、父の他界と同じくして、紀行録の処女作を発表した。父は三代目小林家の歴史家としてのバトンを託したのだろう。それは自らの人生の大きな転換点を迎え、在日コリアンらに対するヘイト・スピーチに法学部生として、在日コリアン人権擁護・人権啓発アドボカシーに、国際人権活動家として芽生えた正義心から火がつき、韓流ブームに刺激を受けながら、韓国語学習を開始した。三菱商事子会社で、ファイナンシャル・テクノロジーの、株式会社トランザクション・メディア・ネットワークスで、精神障害者、発達障害者、視覚障害者ら向けの農業の仕事に復活、三菱グループの手厚い後ろ盾を得ていたことは、三菱に忠誠心が芽生えたのは事実だった。同時に、日本語学科の大学に進み、N1合格の傍ら日系企業に勤務した文鉉伊との親睦を温め、聖人君主たる学問を志すことに目醒める。以下在日コリアン・朝鮮人、韓国人を巡る戦後法制史の要約について整理してみたい。
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日本は第二次世界大戦敗戦により、朝鮮植民地支配は崩壊し、日本国は朝鮮の独立を承認した。日本政府は、韓国併合前の朝鮮人国籍を戻すとの原状回復の論理のもとに、在日コリアンの日本国籍を剥奪させた。しかし、それは国籍差別をもたらし、在日コリアンは戦後も創氏改名(通称名)の使用など、「東方礼儀の國」とも讃えられる、華夷秩序が育んできた、特に戦前以前は、教育勅語に代表される日本においてもお手本とした、「礼」を重んじ、孝、悌などの家族秩序を守り、天下泰平の理想を図る儒教思想を基調とする、独自の「朝鮮」の民族的アイデンティティと他律背反する、戦後のGHQ司令部下の混乱の日本人との同化圧力に軋轢をもたらした。
戦後李承晩(イ・スンマン)政権下の済州島で発生した四・三事件によって、退避を余儀なくされ難民として日本に、商都を目指して繊維業を始め零細商売を通じて生業を凌ごうと、鶴橋コリアタウンを興し、流入してきたのが今の在日韓国人・朝鮮人のルーツと言える。植民地統治下、戦禍に遭遇し希望が喪失された朝鮮において、1938年早稲田大学を中退した創業者李・ビョンチョルが、彼は李氏世宗が備に夜空に浪漫を馳せて観察し、天文学、暦学を築き、陰陽五行説から訓民正音で、韓民族のアイデンティティであるハングルを創設したのに倣うが如く、韓国語で「三つの星」、「空の星のように、大きく、強く、永遠に輝く」を社のモットーに、戦時中であり想像し難いが、初めはシケモクでも拾いながら日銭を凌いでいたのであろう。やがて食品、繊維業を営んでいた零細企業の三星商会は、今日に至っては、韓民族の希望の巨星となり、大韓民国の先進国入りを、高度情報化社会の、デジタル化社会の、先頭に立って牽引するべく、先端半導体や、有機EL技術などを駆使して、世界最大の家電、電子部品メーカーとして発展し、サムスン電子として、数多の歴史的試練を克服し、大躍進を遂げ、名実ともにグローバル企業として君臨、繁栄を謳歌し、社のスローガンを体現している。
大阪府がその人口構成比率において最も顕著な在日コリアンは、1965年日韓法的地位協定により、永住権、国民健康保険加入権が認められたが、就職差別、社会保障における差別は是正されず、国籍差別による同化政策は維持された。これは、分断国家の一方当事者である大韓民国のみとの協定であったことから、国交のない北朝鮮DPRKを支持する人々は協定に反対し、永住権の取得を申請しなかったため、在日コリアンの法的地位までもが分断された。
1965年日韓法的地位協定の年は、植民地からの解放年に生まれた在日コリアン二世が成人に達する年である。日本国憲法下の民主教育を受けた彼らは、就職差別や社会保障差別の是正を訴え、訴訟や社会運動を展開した。これは、国際人権規約(1979)、難民条約(1982)、女性差別撤廃条約(1985)、人種差別撤廃条約(1996)の批准といった国際世論、国際法の動向と相まって、国籍差別是正に結びついた。 例えば、職業選択分野では、日立製作所就職差別裁判の勝訴(1974)、司法修習生の採用(1977)、国公立大学の教授任用法案の成立(1982)、国公立小中高校教員採用試験の全国的規模での国籍条項の撤廃(1991)、地方公務員採用拡大などが実現した。 社会保障分野では、住宅金融公庫法、公営住宅法、住宅都市整備公団法、地方住宅供給公社法に関する国籍条項の撤廃(1982)が実現した。(但し経過措置のため高齢者などの無年金という深刻な差別が残っている。)さらには、1980年代の指紋押捺拒否運動により、外国人登録法の指紋押捺制度も撤廃された。
この時期の国籍差別の是正は、外国人登録上の「韓国」、「朝鮮」の別なく在日コリアン全てに及んだ。日韓法的地位協定により、協定永住取得者と非取得者に分断された在日コリアンの在留資格は、「日韓外相覚書」(1991)により、日韓法的地位協定当事、留保された協定永住三代目以降の在日コリアンに、子々孫々にわたる永住権が認められたことを受け、「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」が制定され、特別永住に一本化された。
こうした植民地支配の被害者として日本に居住するに至った在日コリアンの差別を是正するのに、法的措置を講じることが、時代遅れの昭和の最高裁判断に伴い、差別や偏見に阻まれ、自分の人生の歩みも、在日コリアンと共に、受難の道の試練を余儀なくされ、遅々として進まなかったことが、声高に叫び続けられた、北朝鮮拉致被害者返還運動が先送りにされ、解決への道のりが程遠く実を結ばなかった結果は皮肉と言えるだろう。
我々は歴史の目撃者であるだけでなく、歴史の当事者であることを忘れてはならない。子々孫々と継承される史実を、謙虚によく見つめよく耳を傾け観察しなければならない。そうした粘り強い努力を抜かりなく、働きかけてきた在日コリアンの逞しい勇姿こそ、公正な多民族共生社会の実現の道筋に、在留外国人のパイオニアとして、世界に拡がる在外韓胞や、華僑と共に光を照らし、また東アジア共同体の構築に向けた扉を開ける未来を切り拓いてきた縁の下の力持ちが功を奏し、今日にしてBTSやニュー・ジーンズなど韓流文化が檜舞台に立てることを可能としている。自らもまた歴史的導出の過程で怪我を負ったが、アラビア石油の怪我の功名が功を奏し、在日コリアンと同じくして池坊の自らの花が開花したのに他ならない。我々ひとりひとりが、受難の時代においても、繁栄の時代においても、心の持ち方ひとつ次第で運命は変えられるのだ。
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国際人権ひろばNo62(2005年7月発行号) 特集:戦後60年のいまと未来を考えるPart2 在日問題と日韓関係の未来を考える 金敬得(キム・キョンドク)弁護士 より抜粋
東日本大震災による福島第一原発事故の経験を経ることで、労災によって離職した原因となった核分裂技術が、東京理科大学の西村氏によると、ウラニウムのように沢山の陽子と中性子で構成される原子に中間子をぶつけて核分裂を起こす。原子炉は、核分裂を少しづつ持続可能に制御しながら、エネルギーを取り出す。爆発的に核分裂させると原子爆弾になる。いずれにせよ放射性物質を放出し、人体に甚大な健康被害の悪影響を及ぼす。
そうした副作用を克服しようと、21世紀に入ってから有望視されるようになったITER(ラテン語:道)国際核融合炉開発に代表される、核融合科学技術は、太陽の中心部で高温高圧で行われている水素爆弾と同じ現象を、核融合炉を創出することで、人工太陽を作ろうという科学技術である。今現在では、原子炉の制御が難しく、高温なので溶媒の材質が容易くなく、溶媒の中に電磁石を作動させて密封を試みている。そのために東京理科大学理工学部物理学科名誉教授尾立晋博士の常温核融合の論文が、ノーベル物理学賞が期待される。湯川秀樹博士の2種類の中間子の研究で、ショート・レンジは通常の核融合に関係するが、ロング・レンジの中間子は、常温核融合に関係することが理論上明らかになった。
SDGsと謳われる時代に、世界的に人口減少社会に向かう中、未来の文明社会が今後萎縮するのか、それとも膨張を続けるのか議論のあるところではある。いずれにせよ地球環境問題の切り札となる、核テロセキュリティなどを構築した上で、産油国の地政学的リスクの回避を想定した原発重視のフランスの原子力安全保障政策に象徴される、フランスなどが先行している核融合。一方で、火山立国、災害立国である日本において、どのように地震や災害を想定して、原発建設ロードマップを踏襲していくのか精査を怠らない上で、核融合の実現の理解が働いたことで、アラビア石油の怪我の功名を後世に家訓として留めようと、次世代に育成が期待される文理融合型リベラル・アーツの知識人である世界の局難を憂う大医として、将来の核科学の有効性の処方箋を記すため、令和5年2023年核科学の哲学・神学を本に纏めて、パレード・ブックス社より上梓し、現在に至る。早稲田大学に入学するため学んだ、二宮金次郎が家族を養い、学問で身を立てた採薪は、アラビア石油の石油で、鉄腕アトムのジェットとなって燃え、天空のバラモンとなったのだった。そのバラモンに炎を注ぐべく再噴射を試みようというのだ。
誤った被曝教育や被曝報道が、核兵器廃絶、脱原発といった陥りがちな誤った歴史核認識の罠から脱却するべく、国際核融合炉開発ITERの実現を目前にして、今までとは次元を異にする新たな核の支配・管理によって、ホモ・サピエンスからホモ・デウス「神人類」へと進化する、試金石が試される、核兵器と原子力、核融合をセットにした正しい核教育、核報道、核リトラシーの実現、普及、継承が肝要である。還暦を迎えるのに思うことは、極楽浄土へ導いて下さるのに、誰しもをも、神様は見守って下さっているということである。
昭和の受験生の時、プロボノ弁護士を志した夢を抹消された悲劇を、昭和の時代に反故にされたのなら、令和の時代に成し遂げれば良いのだ。虎の子が崖から本当に突き落とされたのは、留学から帰国後赤坂の法律事務所でバイトした後の出来事だった。その法律事務所の弁護士さんから文化センターだと言われた「ネバー・エンデイング・ストーリー」という本を贈呈されたので、そのままそのような本を書けるか、自分の名前の’信’は中国語で「手紙」の意味であり、ロシア語’Письмо'の意味「手紙」の派生形'Писатель'こそ「作家」の意味を成すロシア語に他ならず、トルストイやドストエフスキー、チェーホフらの文豪に続いて、自らもまた恋文を通じて文通を温め作品とした作家の職業に開花したのだった。
昭和の時代、自分の最初で最後の唯一の失恋の相方霞本が、通学の電車の車中で必死に取り組んでいたとされる、またそれ故に自分の失恋に拍車をかけた、封印していた手話に、ドラえもんの声優、大山のぶ代さんもこの世を去り、「できない」を「できる」に変えるをモットーに、パターナリスティックな見地から、人権マイノリティの親身になってきた自分なのだから、令和の今こそ、自らの手話学習と韓国語学習を追体験することで、青春を巻き戻し、障害アドボカシーや、人権・外国人アドボカシーを、また動物愛護の観点からの動植物アドボカシーを、インクルーシブ・ライフ・コミュニケーション・アドボカシーに総括して、復刻を遂げるべく、第二の人生の船出の旅立ちに、須藤千恵先生から賜った恩に報いるべく、池坊の道に精進を重ねると共に、将来の法律家としての道と、手話学習に関心を持つことができる幸運に恵まれています。点字学習にも関心があります。
健聴者、健視者ですが、統合失調症の精神に疾患を抱え、いつ重度障害になきにしもあらず、手話を通じて、点字学習を通じて、盲者も聾者も含めた様々な障害者全般が、理解のある健常者の扶助と共に、交流を通じてお互いの障害の理解を深め、誰しもが生き甲斐を発揮できる、マイノリティ全般、即ち包括的共生社会インクルーシブ・ダイバーシティの実現に関心を払っています。
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以下、ろう(聾)についての略史をGoogleAIによる解析から記しておく。
手話の起源は、フランスのド・レペー神父が1760年パリで設立した聾唖学校で手話による教育を開始したことが由来とされる。しかし、改めて指摘するまでもなく、大凡人類の歴史において、アフリカを起源とする類人猿から進化したホモ・サピエンスは、当初は、ノン・バーバル言語、ボディ・ランゲージとでも言うべき、非音声言語の身振り、手振りで意思疎通を始めたことは想像に難くない。やがて音声言語を獲得する過程で、人類の中にろう(聾)者が存在し、本格的な手話の歴史の幕開けの到来をみたものと思われる。
日本では、古河太四郎が1878年に、京都訓聾唖院を開設し、「手勢法」という手話を用いた教育法を開始。1890年代には、全国各地に聾唖学校が設立され、口話教育が拡まる。ろう(聾)者の組織の始まりは、全国各地の聾学校を卒業した聾者が集まってできた同窓会だと言われている。この同窓会が中心となり、1925年社団法人日本聾唖協会が発足。戦後1947年、全日本ろうあ連盟が結成された。1968年全国運転免許獲得運動が展開され、1973年補聴器の着用を条件とした警察庁通達が発表される。2006年に警察庁は、2年後に道路交通法改正し、全く聴こえないひとにも運転免許が取得可能と発表する。
ろう(聾)者のスポーツ史としては、
1982年日本高校野球連盟が、沖縄県立北城ろう学校の加盟を正式決定。
1998年第18回長野冬季オリンピックで、聴覚障害者の髙橋竜二選手が、ジャンプ競技のテストジャンパーを務めた。
@GoogleAIによる引用より
手話検定試験を終え、試験監督で、ろう(聾)の北原さんと、試験終了後、途中まで手話をしながら、電車に乗って帰路に着いた。そのとき電車に乗る際、お互いの障害者手帳を見せ合った。そして、帰宅後「銀河鉄道999」の動画を見た。ちなみに、千葉みなとまで行けば「宇宙戦艦ヤマト」である。アニメのストーリーは、富豪層の永遠の命を宿す機械人間と、貧困層の儚い生身の人間の分断社会が描かれていることを今更ながらに省みた。
これらのアニメは、松本零士が宇宙を主題にして描いた話であり、シンギュラリティの問題を含む情報革命に加えて、我々地球人が、旧大陸人がそうしたように、新天地を切り拓き、人類自らビッグバンを起こすことで、米国であらゆる産業が発祥したように、宇宙空間において、イノベーションのパラダイム・シフトを引き起こす可能性を秘めている。まさに、22世紀は、機械人間の出番であり、機械工学に造詣を深めてみることは、とても魅力的だと言える。
今後地球上で、少子高齢化社会が加速する中、障がい者や、高齢者の社会保障費、医療費などはますます逼迫するだろう。同時に医学の驚愕的な進歩で、レイ・カーツワイル氏が提唱した、人間とAIが逆転現象を起こすシンギュラリティを間もなく迎える。「銀河鉄道999」に描かれている、永遠の命を宿す機械人間が、現実のこととなるのは、本当なのかも知れないと、お互いに障がいを持つ北原さんと手帳(銀河鉄道のパス)を見せ合って擬似体験した。
是非この機会に、レイ・カールツワイル氏の著書「シンギュラリティは近い」を読み、Z世代の落合陽一さんの著書にも触れて論考を加えてみたい。そのことは、サイバーを必要とするからこそ、リアルを克服する好循環にある幸運にあるマイノリティである、在日コリアンの人権問題で、核融合について膝を打ったように、ろう(聾)者と会話して、聴覚障がいという、言わば、音声世界と非音声世界の融合という、サイバーと結びついたバーチャル・リアリティVR「仮想現実」から、シンギュラリティの問題に膝を打つことを実感したのだった。科学の進化は恐るべしと言うよりかは、人類は常に、創意工夫を重ね、環境に順応、適応していく存在であることを確認した。
しかし、永遠の命を宿す、富豪層の機械人間のメカニクスにかかる、高額な維持負担を誰が賄うのか、機械人間になれない、儚い貧困層の生身の人間の生活はどうなるのか。果たして、機械人間の永遠の命を宿す生命の存在への方向性自体が、また人間を鍛え上げる、スポーツや医学を超越するその先の人間の存在の正当性が、次世代への、橙々子々孫々の一翼を担う未来の子どもたちが、精鋭部隊で行くのか、護送船団で行くのか、神学的、医学的、科学的、倫理的、哲学的に正当化できるのか。人間の寿命は如何にあるべきか。
その未来の分断社会の厳しい現実を、原作の松本零士は問うている。今でさえ、現実に溢れかえる、貧困層の医療費のかかる高齢者や障がい者などを、現役世代が負担しきれなくなっている現実を、一方で富豪層が、スポーツや医学の力で、肉体を鍛え上げ、さらにはシンギュラリティを超えて、現実に永遠の機械人間を描いて、科学技術は進化していく。21世紀の分断と貧困の深刻な課題は、まさに、松本零士が描く22世紀の「銀河鉄道999」の縮図と言えるのではないだろうか。
それでも、公平、公正な所得の分配、科学の健全な発展、革新的な倫理、哲学の発達を期待し、私たちが上手く21世紀社会を操舵できれば、「銀河鉄道999」の可能性の夢は現実になるかも知れない。実際、サイバー製品が身近に存在するように、サイバーとリアルが結ばれ、21世紀と22世紀が結ばれているのかも知れない。私たちはすでに永遠の命を秘めた存在の可能性は無限大なのだ。希望を誇りに生きていきたいものである。
手話、韓国語、それと核融合、シンギュラリティの問題については、銀河鉄道999、宇宙戦艦ヤマトのシンギュラリティで訪れる「永遠の命」の認識ということで区切りをつけたい。茗溪学園の草加煎餅の御曹司、菊池君が言っていた「小林少年探偵団」の探し物とは、まさに、22世紀の「永遠♾の命」を、星野哲郎が宇宙の長旅で命を賭して追い求めた「永遠の命」を探し当てた、と言って良いであろう。それは自らの欲望でもあり、それと同時に、社会公共への波及の見地から、公共の「永遠♾の命」、もっと広く言えば、公共の永遠♾の命の倫理について追求してみたい。
障がいについて言えることは、そのひとの個性に着目した医学的責任というよりかは、そのひとの環境に着目した社会的責任の方が大なのかも知れない。現時点で考えられることは、2034年の早期開業で実現する、超伝導誘導、即ち驚くべきほど、超低温下で電気抵抗がゼロとなり、電気が効率的に伝導して、超高速度運転を可能にする、超伝導リニア中央新幹線少年となることが、銀河鉄道乗車の宇宙擬似体験と言えるだろう。機械人間となる22世紀までには、まだ時間的余裕があるので、それまでの自らの立ち位置として、社会科学的見地からの司法試験に取り組むよりかは、自然科学的見地から、心理学を皮切りに、脳科学、AIの統合性に取り組むことで、シンギュラリティの課題に挑み、永遠の命に挑戦したい。
デジタル社会の浸透が、加速する中、今後私たちの既存の宗教を主とする旧来の価値観と、先端科学技術のイノベーションが起こす新しい価値観が相克を起こし、時に衝突することもあるかも知れない。しかし、それは既存の宗教の「死を美とすべし」という有限の命から、シンギュラリティがもたらす永遠の命についての先端科学技術の実践的理解による、私たち人類が共有する文明社会の見識についての刷新が起こるのだ。
確かに松本零士のように、宇宙について20世紀の時代に、夢として抱いたことはあったが、21世紀に入り、現実の課題として自らのこととして覚醒するべく、宇宙を克服しなければならないことを迎えたのは大転換であると言えるだろう。イーロン・マスク氏が経営するテスラ・モーター社傘下のスペースX社の火星移住計画が実現し、マスク氏曰く、人類が「地球人」から「多星人」へとそのアイデンティティに変貌を遂げることは現実のこととなるのかも知れない。
幕藩体制までの封建秩序を刷新し、近代法という歴史的所産が、商品経済社会であるレッセ・フェールを成立させる故、またそれが上手く機能しないが故に発展を遂げたと言える。大陸ローマ法を受容して先駆的法学者によって明治期導入された、日本の政治経済社会がとるべき指針を示す、日本の民主主義社会が培ってきた、日本国民の有権者が選択と意思決定を下してきた、脈々と受け継がれる美しい日本の法哲学体系に惹かれている。それは世界人類を貫く、契約自由の原則、所有権絶対の原則、過失責任の原則のグローバルなサンクション「強制力」を伴う共通ルールについては、まさに自分の人生自身を貫いてきた大原則でもある。
橋下徹が掲げた維新の会の公約に、最高裁判例を尊重するべく、神社本庁と国家組織が結託した愛国主義は拒絶するが、行財政改革には賛同することと、日本共産党の福祉政策をブレンドさせた法価値観を確立させるためにも、立法と司法を除いた定義が行政だとする控除説によって、行いを正し模範を垂れるべき行政が、際限なく拡張を継続する規制行政と給付行政の双方とも肥大化、自己目的化、ときに私腹化さえする行政国家現象を危惧する。
令和の時代にだからこそ、大学の先生が講義で指摘していた通り、司法試験という怪物は社会勉強してみないと分からず、ひとの痛みを知る怪我を負うべくして負ったのだから、あとは元の鞘(さや)に戻って、ロールズ法哲学と、ロールズの「万民の法 the law of people」に辿り着く、ローマ法制史に裏打ちされた、行政法に精通した庶民の味方の法律家になるため、大学受験という足跡を付けてきた事に味噌があり、自らの障害と付き合いながら、法律学を自らの血や肉とし集大成するべく、昭和の時代にプロボノ弁護士という思い描いていた夢を、令和の時代に実現するべく、司法試験を志すことを再蜂起することとした。
それは、京都朝鮮学校などの裁判の判例で、人権マイノリティの境遇を強いられた在日コリアンらのアドボカシーを通じて、永住外国人の参政権、社会権を始めとした外国人の人権の尊重に理解が働いたこと。LGBTといった性的マイノリティについては、それが同権の尊重において価値に値するが、性的錯誤までの権利をどう扱うのか。生態系弱者生命体である動物愛護については、人間は民法上法的エンティティーになっても、チンパンジーは法的エンティティーに該当しない。
近年刑法の器物損壊罪に代わる、動物愛護法が施行されたが、人間は腹が空けば、中国人らは、犬でも猫でも食用にする習慣がある現実を認めた上で、麻薬犬、盲導犬、警察犬、など明らかに人間社会に貢献する犬の存在がある一方で、大半の後進国では、未だ狂犬病の解決の見通しが立たず、日本のように殺処分できなければ、伝染病を放置することは人命に直結する。その他害虫のネズミを駆除する猫の家畜の存在。下等動物との共存共栄は生態系を維持していく上で勿論必要不可欠だが、生類憐れみの令でもあるまいが、昨今の少子高齢化の副作用と言える過剰なまでのペットブームは、人間の他者と他物とのコミュニケーション関係を混同させ陳腐化させないか危惧している。
障害者の権利もまた然り、論点は多岐に渡ること。何か法的主体Entityを構成する存在が100%から欠けてしまう時、肢体不自由、視覚障害、聴覚障害、精神障害、発達障害などのハンディを伴うことで、法的経済的社会的に甚大な不利益を被る恐れがあるのだから、民法の後見制度のような、法的主体の瑕疵を補う法制度が出動できるように、その被法的主体の十分な権利保護が図れるようにすることが重要である。いずれにせよ、マイノリティの問題の背景には、旧来社会が画一的価値観を強いた歪が顕となり、ダイバーシティと言われる多様性の存在を認めることが不可欠である。障害アドボカシー、障害者の福祉、人権擁護、人権啓発についてまだまだ不勉強なので学びたい。
虎の子が崖から這い上がるのは、ロールズが説く法哲学を集大成した「万民の法」をよく咀嚼したい。今の時代、利他的行動こそが尊ばれるのだから、「人間」は「人の間」と書くように、「人」と「人」の間で育む「愛」こそ、人間が人間たるべく’raison d'etre'であるのに他ならない。私は、智慧を兼ね備えた高等動物である人間を愛している。だからこそ、人類愛の琴線にも触れるような愛の歓びをおもてなし'Hospitality'したい。(「おもてなし」したい。=「ホスピタリティ」したい。)
自ら負った障害を、手話という愛の言葉に書き換えて、自らの肥やしの糧としてこそ、人類社会をよく経験則的に、科学的に分析し、人類の真の平和と福祉に貢献できるような、旧来の人文学Humanityではなく、心躍る人間を科学する人間科学Human Scienceから広義の文理融合の統合科学として、それは、手話を通じて、いけばなを通じて、智慧を出し合い、愛し合い、慰め合い、許し合い、女性も、男性も、高齢者も、子供も、障害者も、健常者も誰もが生き甲斐を発揮できる社会を築くことで、学問の集大成としたい。
それは、絢爛たる蘊蓄の古典の宝庫にこそ学問の集大成のエッセンスが詰まっているのだから、古典を備に、紐解くことこそ、自らの恐悦至極の愉しみに他ならない。古代の偉人に思いを馳せ、彼らの言葉を現代の今に甦らせるため、礼に始まり礼に終わるよう、自らの著作を通じて世に問うことこそ、自分の人生において果たすべき使命なのだと確信の念を強くしている。
この世に起きた奇跡として、外界世界における大宇宙の誕生とその興亡については、眼に見える世界として、物理学がその森羅万象の宇宙の法則を解き明かす世界である。一方、類人猿から進化した人類の大脳皮質を始めとする非常に発達した脳こそ、古代ギリシャ・ローマ人が「真善美」を探究した哲学を皮切りに、19世紀に至っては、哲学に科学を加えた心理学によって「真善美」を司る「言語」や「行動」から心を解明し、さらに20世紀から21世紀にかけては、心理学に医学を加えた、「言語」や「行動」を司る「脳」や「神経」、「認知科学」を研究対象とする脳科学へと、主観から客観の世界に進化し、眼に見えない世界として、人間の内面の世界の謎が、解き明かされようとしていることは、実に興味深い。しかしぼくは医者ではない。専門家である以前に、父はぼくの名前に「信」という漢字を名付けた。海外へと向かった反動は、そのまま母国へと回帰し、文鉉伊に国語の先生として慕われ、日本手話が開花しそうな今こそ、国語学者、日本語学者、日本手話学者として、大西忠治先生が国語学の道を選んだように、国語学に回帰するべきなのだ。
その言語が、そのひとの世界である延長としての心理学、脳科学、AIに取り組みたい。薬物療法を診療された自分にとって、カウンセリング療法を望んだ、精神科医の同じ過ちを繰り返さないためにも、世の中の尽きることのないお悩みに傾聴するべく、インド哲学に通じた公認心理師試験の勉強をもって、人権アドボカシーの課題の還元とし解決を図りたい。
1969年昭和44年兵庫県西宮市生まれ。父の仕事の都合上、東京都練馬区石神井、山梨県甲府市、茨城県土浦市、茨城県稲敷郡阿見町、大阪府枚方市、千葉県松戸市など転居を重ねる。茗溪学園を経ることが、母が流産を経験し、農家の出である母は、学問より、野良仕事の方が得意で、それにより学業期以降、高所やスピードなどに強迫観念を抱く、パニック症候群、ヒステリック、恐怖症などに陥ったこともあり、父の無関心が拍車をかけ、両親からも教諭からも見離され、保護責任者遺棄の始末かとも思えたが、項羽と劉邦のような、生涯に渡り良き理解者としての吉永慶太という親友を得たことは、大きな収穫に他ならないことだった。
逆境とも思えたが、平成の時代に入っては、国際児童福祉に関心を寄せられた高円宮絢子さま、平成から令和の時代に至っては、雅子さまのこともあってか、聴覚障害者を主とした手話福祉に高い関心を寄せられている秋篠宮佳子さまの存在は、自分の人生に大きな希望の灯りが灯された。そうした今となっては、絢子さまや佳子さまが培わられた公共公益福祉の地を拡げ後に続くべく、自分もこの頃、法学部進学を意識し始め、他人の役に立つ法律を活用した仕事に就きたいと思うようになった。帰国子女を中心に集う茗溪学園中学校高等学校を、三井財閥系銀行員からジョージタウン大学大学院を経て、世界銀行、外務省駐バーレーン大使館書記官として活躍した吉永慶太、帰国子女生としてUWC、京都大学、慶應義塾大学大学院に進んだ高野厚らと親交を深める。
一年生の時、寮東4階でハウスマスター中村恒三先生のもと、まだ自ら射精を覚えたての頃、ルームメイトの2年生の上級生だった中川先輩が二段ベッドの上で、堂々と自慰行為をしていたのを目撃した。この時以降、日本画壇において中川胡粉が顔料として君臨している事実に、中川さんという名前のひととは不仲が続いた。しかし、クールジャパンの熱狂と共に、自分も池坊の法門をくゞり、禊を済ませ、茗溪学園のルームメイトの上級生中川先輩とのご縁こそ、五十半ばになって自ら日本画に取り組もうとする今、手話サークルさざんかさんの温かいご声援も頂戴して、大事なご縁を取り持って下さったと言える。
当時まだ、シンセサイザーが世に出たばかりの、松浦君がラジオで聞かせてくれた、YMO・イエロー・マジック・オーケストラを演奏する坂本龍一、高橋幸宏、細野晴臣らの電気音楽、実験音楽に影響も受けてか、学校に導入されたパーソナル・コンピューターに関心を示し、ベーシックと言う原始的な機械語を認知するが、防衛医科大学に進んだ先輩のプログラミングのセンスの良さに感銘を覚えると共に、自分の数学の相性の無さに挫折する。
以降、米国留学時アップル社がまだベンチャー企業にすぎなかった頃、富裕層らがマッキントッシュを手にし、タイからの留学生が自分はコンピュータ・サイエンスを専攻すると豪語していることに驚いた。帰国後、会社に導入されているIBMのコンピュータを動かすため、直属の上司からMSDOSを覚えろと命令されたが、その意味が飲み込めないでいた。しかし、会社を離職し、障害を抱えている今、大凡人類が操る言語とは、外国語、障害者、サイバーが構成する三要素が相乗効果を挙げていることに理解が働き、特に、歴史問題が滞る中国人や、韓国人らの外国人の人権や、様々な障害者への配慮を始めとした、昭和の基礎演算のコンピュータから、あたかもサイバーにも生命が吹き込まれるかの如く、令和の生成AI人工知能などへと目覚ましく発達、昇華を遂げていることから、リアルもサイバーも横断した、外国語、障害者言語、サイバー言語の三要素の包摂的バーバル・ノンバーバル統合理解型リトラシーなど、心が躍動することに後生を捧げたい。
それは、あたかもサイバー自身になるが如く、誰しもがサイバーの助けの必要とする、ある意味での障がい者として必要不可欠なのであり、令和六年土屋先生の池坊巡回講習を目前にして、高校の同期の土屋君がシステム・エンジニアとして活躍していたことも知り、自分は常にコンピュータに関心を抱いていたのだと、吉本興業プログラミング部Python入門の本で勉強を始めた。株価データから始めて、気象データ、衛星データ、医学データの解析などにも取り組んでみたい。障害を抱えていても、毛利衛宇宙飛行士に続く、国立科学博物館館長の全盲の視覚障害者の浅川智恵子が、点字翻訳で開花し、東京大学大学院、カーネギーメロン大学を経て、IBM最高職位フェローを勤めたように、後進となるよう見習うべく、今後の目標に掲げたい。
虎の子は、崖から突き落とされるように、下剋上を戦い、独学により一浪の末、1988年昭和63年早稲田大学政治経済学部合格番号’一〇〇五四’は、衆理を以って早稲田大学の学旨とする、早稲田大学の醍醐味が、後に三十余年の歳月を経て、池坊で紡ぐご縁となった。地球の天然資源が劇的に枯渇していく中で、森林植樹が百年先とも、二百年先とも見通しの立たない、ハゲ山となったゴルフ場の女子ゴルファーが、せめてもの眼の保養であるように、佛前供花をご先祖さまに供養する華道は、最果ての地上に残された、最後の儚い池坊人の至福の贅沢と言えるのかも知れない。
ところで、自分は、在日コリアンと、ろう(聾)者の同志となり、紆余曲折はしたが、渦中の栗を拾うことで、強きを挫き、弱きを助く、ひとの気持ちを汲み取ること「以心致遠」こそが早大生の本懐であり、自分が東大、京大、慶大ではなく早大生を選択したことに後悔はない。後進にも同じことを薦めるだろう。早稲田大学の同級生、高波君が作家になると自負していたのは、自分もまた一員に加わることになった。
GAFAを筆頭に、中心の豊かさに富を捻出する、収奪と負荷の転嫁、外部化を厭わない、キリストを十字架にかけ、神の賎民として社会的に排斥された選民思想に固執するユダヤ人は、高利貸しによって生業を凌ぎ、ユダヤ・エリート階層と共に、ユダヤ資本を形成し成長した搾取資本を守るのに、無辜の人民の殺戮も辞さない、たとえ先の大戦のホロコーストで犠牲を強いられたとしても、米国やイスラエルなどの強硬勢力を玉砕することこそ正義に叶う。
アダムとイブが林檎を食べたら、肢体を纏うようになったとするキリスト教史観こそ、人類の蓄財とその蓄財を巡る戦争の通史だと言える。つまり隠すことから蓄財が始まり、蓄財することから戦争が拡大したのに他ならない。私は、仏教史観にこそ、草花を愛するように、生きとし生けるものを慈しむことで、エロスこそ人類平和愛を導くのに、貢献、解放するものと信じているから芸術創作行動をしている。
裸婦像についての見解は、聖説、俗説混在しているが、猥褻ではなく、過去にはブルジョワ階級などから、センセーショナルだとして、倫理的に忌避された歴史もあるが、天地創造を象徴する子孫繁栄の、また人間讃美の広い意味での女性も男性も、裸像が神聖視されるからこそ芸術であることを、表現の自由において訴えることを意図することで、中国、ロシア、北朝鮮など覇権主義社会によって、当たり前にある訳ではない「自由」が脅かされる時代だからこそ、日本国憲法が謳う基本的人権の尊厳、民主主義、平和主義の自由社会の理念の砦となるべく政治的一市民の志士として闘い、「自由」を謳歌して生きていきたい。
ロシア、白ロシア(ベラ・ルーシ)、ウクライナの三国で国連のソビエト連邦の三票の投票権を構成していた小ロシアとしての緊密性が歴史的に不可分であることと、インド太平洋などというアメリカのご都合主義的安全保障の枠組みが、ロシアと中国を孤立化させ、歴史的親和性を無視した国際政治の合従連衡は、危険であるばかりか、国際安全保障を第三次世界大戦の破綻に招く。
戦後、ハイパーインフレーション、国際収支の赤字、減税国債の発行、公共事業、財政投融資の拡大等々、巨額の財政赤字や累積する借入金の返済に見舞われた。経済政策では、ハイエク、フリードマンら、財政規律のもと、財政健全化に誘導するため、財政出動に消極的な新古典派主義が潮流となり、バブル経済黎明期より、マーガレット・サッチャー、ドナルド・レーガンらが台頭した。中曽根康弘は、国鉄民営化、電電公社民営化、タバコ塩専売公社民営化を、小泉純一郎は郵政民営化の政策を実行に移し、第二次安倍晋三内閣が発足後、2015年には、橋下徹による維新の会が現れた。
自分が根っからの飛行機野郎で、新幹線の利用を遠ざけてきたが、環境問題を考慮に入れなければならないことは当然のことであり、禁煙もクリアできそうなので、早速新幹線と交通カードのネット紐付けに申し込んだ。スピードや利便性が優先され、JR民営化の主旨は、肌で実感するが、収益最優先のリバタリアン経済に陥っていないか、長く新幹線を食わず嫌いできたので、全国新幹線網が繋がったことで、よく新幹線に実際乗車して、この機会に、乗客が置き去りになっていないか検証してみたい。しかし根っからの飛行機野郎という論点は、人体や生命体に悪影響を及ぼす、地球に降り注ぐ宇宙放射線や、太陽や銀河系、深宇宙からの宇宙放射線の問題に火をつけ、地球環境危機に核融合の課題に蹴りをつけて、宇宙工学の道を志すのだった。
20世紀という時代、あるいは、戦後の昭和の時代、文化は文明の無駄から産まれるとよく言われるが、「文明文化」を養う米は豊富に在庫していた。しかし、平成に入り、21世紀の時代になると、新たな産業のイノベーションを起こさない限り、「文明文化」を養う、地球の天然資源の米櫃は底をついたと言える。それは、経済のグローバル化の名のもと、規制緩和による大企業優遇措置が先行する新自由主義が、政界において主役となるが、世界共通に言えることとして、皮肉なことに新自由主義とは裏腹に、格差社会、貧困層の増大、非正規雇用の拡大、分断社会の増幅など、庶民の暮らしが火の車であることに目もくれず、ミニ野党が総与党化し、国民の痛みの声を吸い上げる庶民野党が壊滅、政党政治が本来果たすべき、社会国家機能、福祉国家機能、所得再分配機能、社会公正機能等が機能不全に陥ることで、国民が政治から蔑ろに置き去りにされ、代わりに、遊興費などの浪費で破産寸前の若者が、前途を無駄にして闇バイトに加担し、れっきとした犯罪が、経済機能としての市民権を獲得し、私たちの経済自体がブラック経済化する崖っぷちにいる、惨憺たる現状が今の政治である。一見、賃金と物価の好循環の兆しが見られるとよく言われる私たちの経済だが、戦後の戦争からの強い復興という天井知らずの団結は消え失せ、今更ながらにデフレ脱却から立ち直ろうなどという気概は感じられない。
過疎社会の崩壊が、少子高齢化のもと、都市部まで波及し、三十年後、四十年後、「日本国崩壊」が現実となるのは、火の目を見るより明らかであり、今こそ地域経済の底上げが待ったなしである。「揺籠から墓場まで」とする英国の社会保障は誉高いが、日本の政治家が得てして、取り組もうとするのは、いたずらに入口戦略しか描かず、出口戦略まで先が見通せないのでは、これから生まれてくる子供たちの夢や未来や希望は、行き場を失うだろうし、現に行き場を失っている子供たちを、街で目にするのは当たり前の光景だ。中途半端な社会保障戦略は税金の無駄遣いの他何ものでもない。
私たち文明社会は、戦争を繰り返しつつ、その復興とともに、文明社会を進化させ、より豊かな社会を担うことを続けてきたが、工業革命を迎え、石炭石油化石燃料によって、地球温暖化を引き起こし、情報革命を迎え、デジタル社会が到来し、携帯電話、デジタル機器、電化製品などの部品として用いられる、リチウム、バナジウム、ニッケル、コバルト、銅などといったレアアース(希少鉱物)の採掘現場で新たな環境破壊を引き起こし、地球は今危機的状況に陥り、悲鳴を上げているはずだ。今後世界的な人口減少社会を迎えるが、日本の各政党は挙って、少子化対策を訴えている。
しかし、私たちがこの世に生命を授かったとき、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開業し、アポロ宇宙船の月面有人着陸が成功し、そして何よりもベルリンの壁が打ち破られ、冷戦終結に終止符を打ったそんな心踊る未来を夢描いて、これからの赤ちゃんは誕生できるだろうか?地球の非常事態に今いる私たちが、後進の世代に託すとすれば、私たちのようなバラ色の未来ではなく、絶滅の危機にある地球を救うレンジャーとしての精鋭部隊として期待することを託すより他ないだろう。やみくもに赤ちゃんの数を増やすことだけが政策ではなく、これから生まれてくる赤ちゃんのレンジャー精鋭部隊として期待される教育の内容と質の充実にこそ、私たちの文明社会の存続の未来が託されていると言えると私は思う。自らもまた、レンジャー部隊の一員の老兵として、地球環境危機を救うべく、宇宙工学を志し、地球の未来に貢献したい。
しかし、宇宙進出を前提とする場合、宇宙放射線の問題は避けて通れない。宇宙進出を考える場合には、宇宙放射線の遮蔽材の宇宙への運搬を考慮に入れざるを得ず、従来型のロケットに加えて、未来型の宇宙船舶、宇宙鉄道といったSFのようなことも現実のこととなるのであろう。今は、自らの行動経済学的な効用最大化を考える場合、地球という最後の残された楽園で、セックスが体を刺激して肉体的(大)精神的(小)快楽を得られるように、ヨガを通じて宇宙と合掌し、この宇宙を支配する森羅万象の摂理から、肉体的(小)精神的(大)快楽を得ることを追究したい。それは、ひとが子孫を残すために、セックスに満たされようとするのと同様に、賢者ならば、真実を求めてヨガに満たされようとすることでもあるのだ。
ヨーガとは「精神作用を集中させた瞑想法」である。ヨーガのサンスクリット語の語源は、yujであり、軛(くびき)をかける。結び付ける、といったものであり、統御、結合といった意味で、心の作用を統御して宇宙の悟り、智慧を得ようとするものである。まさに障害者として、俗世とは合致が見出せなかったが、ヨガの実践を通じて、聖界である宇宙との合一という合掌を得ようとするのだ。そのことで、精神的充足を通じて、革新的な哲学、倫理学の創造へと還元し、宇宙科学に貢献したい。
@以下GoogleAIによる地球危機の見識を引用する。
地球危機には
• 気候変動(地球温暖化の危機)
• 資源浪費による危機
• 生態系の危機
• 環境汚染
• 海洋プラスチックゴミ
• 生物多様性の減少
• 食料問題
• 水問題
• パンデミック
• 人口問題
地球温暖化は、人間の活動によって大量の温室効果ガスが排出され、地球の温度が上昇し続ける現象である。地球温暖化の影響は、気候や生物などの自然界のバランスを崩し、野生動物の絶滅や、人間の健康への悪影響、海面上昇など色々な問題の原因となる。
地球が直面する環境問題とは、一般的に地球温暖化、海洋汚染、水質汚染、大気汚染、森林破壊の5つを五大環境問題と言われている。
@GoogleAI
「政府を小さく小さくする政策」を推し進めた結果、公正主義、相互扶助や、所得再分配機能が壊滅、良識を兼ね備えた苦学生が報われるという美談が姿を消し、あたかも知識さえも資本市場で剥奪され、資本家と、本来権力を批判すべき知識人とが結託した歪で陳腐な独占構造は、弱きを助け、強きを挫くのではなく、日本社会のいや、世界共通とも言える、弱肉強食の一強多弱の寡占状態が露呈し、寄らば大樹の木となり、甘い汁に猿山の如く群がる醜姿こそ、今日の世相を曝け出している。
生成AIの人類支配・制覇、リバタリアン経済の自己本位主義、アルコール広告氾濫、飲料摂取による自己責任の酩酊のもはや人類壊滅の三本の矢の原因は、世界保健機関WHOの煙草の歴史と健康被害だと訴える行き過ぎたまでのナチズムと偏見が元にある。以下煙草について考察してみたい。
タバコはナス科のタバコ属の植物である。起源は新大陸とされ16世紀はじめには数種のタバコが栽培されていた。この時代から五百年を経て、黄色葉、バーレー葉、オリエント葉、在来葉などたくさんのタバコが栽培されていた。これらは「ニコチアナ・タバカム」という種に属する。現代のタバコ製造に欠かせない代名詞となる。学術研究によると、ボリビアとアルゼンチンとの国境にまたがるアンデス山中に分布する二つの野生植物が「ニコチアナ・タバカム」の両親と考えられている。
タバコの文化を生み出した新大陸では、「タバコ」は神々に捧げるための聖なる品として重要な役割を果たした。タバコの歴史について多くの謎が残るが、メキシコ・チアパス州にある世界遺産「バレンケ遺跡」のレリーフ(=浮き彫り)から明らかになっている。バレンケ遺跡は、紀元7〜8世紀に栄華を誇ったマヤ文明の遺跡だが、レリーフには、その中の「十字架の神殿」と呼ばれる神殿内の石柱に彫られている。擬人化された神がタバコを燻らしている様子が分かる。神がタバコをお気に召し、人々にも愛煙された。ちなみに日本の皇室にも、参賀に訪れた人々に、賜われた土産として昭和の時代まで、タバコが配給されていた歴史がある。
神事祭祀に用いられたタバコは、次第に嗜好品になっていった。現在のメキシコからホンデユラス及びエルサルバドル地域で繁栄したメソ・アメリカ文明などでは、誕生祝い、結婚祝いの場にタバコが出され、一般の人々の間に喫煙の習慣が広まった。
日本においても、戦後戦争による財政難をしのぐため、大蔵省は税収増のため、タバコ文化が活況を見た。「吸いすぎ注意」の文言が現れたのは、1970年昭和45年のことである。平成に入り、「健康志向」と「世界保健機関の指導」でタバコナチズムが出現し、1996年をピークにタバコ生産量は減少し、以降タバコは辺鄙な階層へと肩身の狭い思いを強いられ今日に至る。
以下俗に言われるインディアン、正確に言うとネイティブ・アメリカン。もっと言えば、ネイティブ・カナディアン、ネイティブ・メキシカン、エスキモーなども含めて、ここではネイティブ・アメリカンとは1492年以前にヨーロッパ系白人が現在の北米地域に入植する前に、現地に居住していた民族の総称である。白人主にキリスト教徒によって行われたインディアン戦争の北米植民地戦争によって、大量虐殺、民族浄化、強制移民があった。これらの戦争により、先住民は、貧困、アルコール依存症、ギャンブルに耽溺するなど深刻な社会崩壊現象の問題を抱えている。また先住民はブラックヒルズなど白人に奪われた土地の返還請求訴訟を起こしているが、合衆国政府を支持する人々はこれに応じていない。
世界中に蔓延るロマンス詐欺、オレオレ詐欺など、平然と嘘が語られ、巨額の詐欺金が騙し取られる中「インディアン嘘つかない」は最早死語となるのか。昭和の時代、タバコを嗜好することが賞賛されたことが、平成の時代に、行政指導から行政罰へと罰則が強化され、平成世代や令和世代に、犯罪者扱いさえされている変貌と現実に、驚きとショックを隠せないでいる。
このようなかつての文明が誇った文明の栄華が、今日に至って些細なペナルティかも知れないが、ぼくには心の琴線に触れる問題なので、ロールズ「正義論」の本の中から少し拾ってみたい。ロールズは、プリンストン大学を陸軍入隊のため繰り上げ卒業し、戦地レイテ島に向かう。その激闘の末、敵を打ちのめすことこそ神の思し召しだとする聖公会の牧師の偽善的な言葉に落胆し、原爆投下が戦争終結を早め、多くの米軍将兵の命を救ったとする正当化の根拠薄弱さを丹念に暴いた。1990年代稲盛財団の京都賞思想・芸術部門の受賞に招かれるが、イギリス王室が下賜する爵位を謝絶した法理学者L・A・ハートを褒め称え、皇室に参内して天皇と会食するよう知らされ、賞を辞退する。世襲の王権制を糾弾してきた平等主義者ロールズの面目躍如であった。 ロールズは、第一に、社会生活の基本をなす「自由」とは、平等に分配すべきこと。(平等な自由の原理)第二に、地位や所得の不平等は、二つの条件ー①最も不遇な人々の暮らし向を改善する、②機会均等のもと、地位や職務を求めて全員が公正に競い合うーを満たすように編成されるべきこと。(格差是正原理と公正な機会均等の原理)その視野は次第に国際関係に(より正確には「民際」関係)まで拡大し、「万民の法(the law of people)」と言うグローバルな正義が通用する「現実主義的なユートピア」を見据え、複数の人民(民衆)の間の「正義」(真っ当な付き合い)とは、「反テロリズム」のムードに乗って宣伝されたような、武断・制裁の正義とは次元を異にする。どうすれば世界中の人々が、自由と暮らし良さを分かち合い、正義と平和を享受できるかーロールズは晩年この問題に取り組んだ。
「子供たちよ/あなたは知っているでしょう/正義ということを/正義とは/つるぎをぬくことではないことを/正義とは/”あい”だということを/正義とは/かあさんをかなしまさないということだということを」(大平数子「慟哭」より1955年) この被爆者の詩の訴えを心に留め、正義について考える原点としたい。
喫煙を巡る正義とは何処に辿り着くのだろうか?凶悪犯罪を取り締まることはさておき、警察行政の大半を占めるのは、全国どこの警察署の一階も、交通係で構成される通り、警察の主な取り締まり対象は交通刑法犯である。実際、警察白書によると、令和五年度の総刑法犯数は六十万件で推移しているのに対し、交通違反者数は、実に六〇〇万件から八百万件の数で増加傾向を続けている。商業目的の自動車利用の保護法益は、当然ながらその社団性の性格において尊重に値するとして、一般自家用車利用については、未来社会のインフラの切り札とも言える、テスラモーター社のサイバーキャブのような完全自動移動体が市民権を得るまでは、交通運転の危険性、道路渋滞、二酸化炭素排出など鑑み、炭素税、ロードプライシングなど規制措置がむしろ取られても良いのではないか。一方で喫煙違反の罰則を取り締まるのは、専ら行政や、運送契約を取り交わす運送事業者である。喫煙が刑事的侵害法益に該当するという話は、立法も、判例も、学説も皆無でありあり得ない話である。
平成の時代に入って、世界保健機関WHOの保健指導が、国内法体系に横から割り込んできて、行政が喫煙についての行政指導や行政罰を導入した。法益侵害の核心部に当たるのが刑事罰であり、法益侵害の輪郭部に当たるのが行政罰である。刑事罰は、生命、身体、財産に対する法益侵害が主なものであり、行政罰には、税法、環境、労働、金融、証券、道路交通違反などがある。立法の確立をもって最終解決とする司法が消極的作用であるのに対し、立法の法を実施する行政は積極的作用であり、その立法の実現に、場合によると独断に陥りかねない。従って行政作用を不服とする行政訴訟法の積極的展開が求められる。
嫌煙権という、確率と統計分布だけの事象によって結論づける、WHO世界保健機関の言い分だけが罷り通る、保護法益にも劣るような微々たる輪郭部の縁にあるような「権利」を不必要に際限なく拡げ、労働者の安息という核心的保護法益を、廉価であるはずのタバコを法外に増税し、喫煙権の被保護法益を剥奪し、非喫煙者と、辺鄙な階層へと虐げられる喫煙者の間に、現代社会の分断さえ生んでいる今の行政には到底納得いかないし、喫煙者の権利を蹂躙し、憲法第十三条国民の幸福追求権を剥奪していると言える。喫煙権より、同性婚や動物愛護の保護法益を、優先する最高裁の考え方は到底納得できず無茶苦茶である。この点について、我田引水との批判にも耐えうるような論考を加えてみたい。
環境破壊や経済格差を引き起こす、獰猛なGAFAを代表格とする独占主義が暴挙する今だからこそ、国際連合や赤十字社などによって、公正な秩序と資本主義が果たすべき、マイケル・サンデルら親中派が唱える「公共善、Pro Bono Publica」の導入こそ、保守であっても「福祉型の大きな政府」の実現が喫緊の課題である。 逼迫する社会保障費の捻出に全世代負担型を強化するため、子育て支援金を全社会保険料に上乗せするなどの政策を支持する。そのことは維新のように、不要なものは削る、共産のように手厚くするものは盛る、メリハリが重要であり、立憲のようにヤジだけ飛ばしているようでは埒があかない。公明や国民など風見鶏は問題外である。
マスメディアが煽る、過剰なまでの欧米同化は、欧米の古代ギリシャ・ローマ文明をルーツとする、自由闊達な議論を通じて真理を究明するリベラル・アーツ教育と、東京大学の前身開成学校を頂点とする華夷秩序からの古典読解によって聖人君主たるべく儒教科挙体制とは同床異夢の絵に描いた餅であり、昨今の大学の英語教育化を憂い、国語教育を重視した母国のアイデンティティー強化を図るため、守旧を温めるのに、華夷秩序を構成する科挙の必須科目を課した古代中国唐代よりを始め、朝鮮、日本、琉球、越南と呼ばれたベトナム他、マレーシア、シンガポールなどの華僑圏と親睦を図りアジア平和外交を自覚することこそ肝要である。
俗も聖も克服するべく、東京大学の前身開成学校を頂点とする儒教科挙体制の難攻不落を攻め落とすため高みを極めるためにも、学生時代学業にその核心たる法律学に専念できなかったリベンジを果たすため、自らの人生に所縁を持った、韓国語、手話、法律学を三本の矢として射るため、行政書士試験、司法書士試験、司法試験予備試験、司法試験合格を目標に、アラビア石油在籍当時の小長啓一社長の後進として続くべく、巨悪を眠らせない法曹の作家を目指したい。
更に自らの武家の士族としての出生を正すのに、仏教思想の虚無性に立ち止まることも必要であると同時に、政治を前に進めるためにも、忠孝を重んじる儒家思想を積極的に採り入れ、朱熹による朱子学から陽明学に発展した四書五経が繁栄した百点満点の理を磨き、濁々とした気を取り除く天子たるべく修己修錬に励んでいます。
米中経済冷戦が、米中軍事冷戦にエスカレートしようとする今、自分の人生において前例がないほど、濃厚な親睦関係を結んだ文鉉伊との厚誼を、更に親展させるためにも、かつて宗氏が中継貿易で繁栄した対馬藩で、江戸中期に外交手腕を発揮した、中国語、朝鮮語に長けた令和の儒家雨森芳洲を目標としたい。
留学時代、抜群の教員のPhD(哲学博士号)取得率95%という数値に感銘を受け、自分も後進になろうと夢見たが、Dr取得の道を志半ばに病を患い、悪夢となって門外漢となったことを反省し、米国リベラル・アーツ・カレッジで、アイビーリーグの一角を占めるブラウン大学大学院博士候補生のインド人女性と、教員として肩を並べたことは、法学部生として当時からロー・スクール大学院制を敷く判例法体系下の米国のもと、Juris Doctor(法務博士)と等しく博士のヒエラルキーとして博士Dr待遇の厚遇で扱われた経験に誇りを持ち自負としたい。
幼少期の強烈なまでの海外志向は、TV東京の「YOUは何しに日本へ!?」に象徴される、クール・ジャパンの到来を待って母国文化志向に回帰した。五十にして天命を知り華道に親しみ、稽古に精進を重ね、精神的涵養を高め、聖賢の教えを以て、天下泰平の深層真理を探究、解明してみたい。そのためには、誰しもが人生の旅路の途中で、何らかの障害を負うのであり、真理を探究するのに、天下国家のため男子怪我を厭んではならないことが本懐である。
マニュファクチャー(手工業)の時代までは、人類通史において文明社会が健全で安定していた。産業革命を経て、生産様式が工場化、機械化、大量生産化されると、化学物質による環境汚染、交通戦争、地球温暖化など人類社会に様々な悪影響を及ぼし、その最たるものが、NVDA社の先端半導体による生成AIが人類を制覇、支配しようとしていることである。だからこそ、手を動かし、自分の頭で考え、自分の足で行動することが求められている。特に昨今の着物ブームにも関わらず、世界有数の養蚕国家であった日本が、絹糸輸入に依存するばかりか、裁縫工の成り手が崩壊し、裁縫過程も海外に拠点を移さざるを得ない、まさに衣食住の衣の屋台骨である着物文化が危機に瀕していることを顧みて、また伝統美の真骨頂とも言える着物の美しさに惚れ惚れするからこそ、和裁の勉強もいつか機会があれば是非頑張ってみたい。
少年時代、少女に寄せた恋心は、青年期となり生命の象徴である女体の神秘性に駆られた。やがて、動的な女体の放蕩から、栄華盛衰となり、諸行無常となり、輪廻転生となり、quiet「静かな、安息の」、ラテン語の語源、鎮魂歌レクイエムとして、中国、朝鮮半島から伝播した陰陽説に由来する立花は、一過性しかない儚い花の生命が、無限の生命の連環を象徴することに他ならないからこそ高貴である、草花の静的な挿花の趣へと変遷してきた。この世の性が男と女の二対で構成される以上、生殖器である花々への関心を高め審美眼を養いたい。
池坊人として、荊棘(けいきょく)を拓いた先輩方の恩恵の後塵を博し、花友と共に切磋琢磨し、よく衆理を観察して兼ね備え、万事に応ずる徳の光明を赫奕(かくえき)にし、温和慈愛、恭敬樽節を以てご縁を紡ぎ、新民尽くすなり。彩豊かな潤いあるいけばなを佛前供花として、来世という桃源郷まで終わりなき旅を続ける旅人として、普く祈りが捧げられるように、花となるべく、山となるべくいけて華道に精進を重ね、未来へとバトンリレーの襷を次世代の次に繋げて参りたい。
司馬遼太郎は朝鮮半島と日本との関係で、日本は秀吉の朝鮮出兵と太平洋戦争の二度の禍根を遺した、と述べている。なかでも外交復権のため取り持った朝鮮通信使の日韓関係に果たした役割こそ、自らの日韓関係の外交復権と合致し重なり、モーセの十戒にも匹敵するような珍島割れの奇跡を起こしたのに他ならない。戦後の在日コリアンの法的諸権利獲得動向に焦点を当て、自伝を取り混ぜながら、在日史、日韓史を省みたい。新羅飛鳥時代の仏教伝播に触れる他は、太平洋戦争以前は割愛としたい。チョー・ヨンピルの釜山港に帰ったら、天童よしみの珍島物語が花咲いたという何とも奇跡のようなお話だが、虫の知らせというべきか、自分に届く韓国からの知らせには、日韓関係は、保革政権の交代と共に、付きつ離れつを繰り返しているが、どんな時代においても、いつも真実性を帯びているので、その謎を解くため、日韓民族融和の覚醒を試みるべく、著述してみようと思うので最後までお付き合い願いたい。
古代日本には、日本通史が織り成した「万世一系」の思想として、『記紀』として称される『古事記』『日本書紀』が存在することはよく知られているところである。中国では「天下一家」として劉邦が「漢家」の祖、李淵、李世民が「唐家」の祖として知られている。「国家は一姓の有に非らず」として、中国では、国の名前に王朝の名を称さない。それは中華文明が華夏文明として、北方民族などの騎馬民族の軍事技術を取り入れてながら、中国が織り成す風土と共に、中華文明を周辺域に拡張していったのだった。ちなみに、楊氏から李氏へ、隋代から唐代の王朝交代を易姓革命という。
『古事記』が大和朝廷によって編纂された天地開闢を語る古代の物語であるのに対し、『日本書紀』は漢文体で記された官製選書の歴史書である。それ故に、万葉仮名の漢字利用に甲類・乙類の区別があり、最近の韓国人の日本古代研究者の研究によって、百済系・新羅系の系統に分類され、日本古代史研究は日韓の共同作業によって解明が進んでいる。さらには、『任那』ミナマという国が、マが真を示し、ナが奈良の奈の音に当たることも興味深い。実に古代日本の最古の歴史書の源流においても、その謎には、大陸や朝鮮半島からの渡来人こそが日本人のルーツの鍵を握る上で、日本と朝鮮半島の交流の歴史抜きには語れない。
私の海外への消息の転機は、二度あり、平成を隔てて、昭和と令和に渡って、明暗を塗り分けた。ひとつは名士の弁理士を父に持つ、母校の大学の先輩で、外交官から転職した、スミダという在日コリアンの名前と紛らわしい弁護士が経営する赤坂の法律事務所でアルバイトをしていた時のことだった。
それは、その先輩の国際法律会計事務所という存在それ自体が、法律学と会計学の知識を醸造、熟成させるための、自分の遥か未来において遡及されるべき運命的な巡り合わせを兼ね備えたものである点において、昭和の悪夢が、令和に正夢になろうと、昭和に抹消された法学部生の自分が、令和に法学部卒業生として復活を遂げようとしている証なのだ。まさにその証こそ、昭和の時代夢見たプロボノ弁護士が、令和の時代に手話学習となってカムバックした。イコンを求めたロシア正教会を旅した船で同船した鈴木宗男の国会議員の娘と、ぼくが購入した手話の著者が同姓同名で、今手話学習をしていることは、神様の思し召しの奇跡に他ならない。今世界では戦争がおきているが、平和な世界を願って、ぼくも手話を学ぶことで、いけばなを生けることで、ウクライナ戦争で疲弊しているウクライナも、ロシアも、世界中の敵も、味方も、男性も、女性も、健常者も、障害者も皆愛し合い、慰め合い、許し合う、そんな社会に貢献したい。愛情を互いに触れ合うことのできる生命体としての感動を忘れずにいたい。
冒頭にトップ・シークレットを明かさなければいけないが、懇意にしていただいた弁護士のアシスタントで、パートナーの弁護士さんが日本画のような名前だと評した雪竹彩さんのお兄様は、早稲田の先輩でパントマイムをしていたのに他ならず、今こうして三十年の歳月を経て、手話を必死になって覚えようとしている自分も、またパントマイムの真似事をしようとしている姿と重なり、手話学習から日本画制作の着想を得たのだった。言うまでもないが、人は誰でも、人生の旅路の途中で、あるいは途中でない場合でも、場合によっては生まれた時からも、何某かの障害を、障害というのは国や自治体によって認定される障害だけが障害ではなく、病や不治の病、得意、不得意、列挙するまでもなく、ハンディという障害を負うものだと、どんな障害であろうとも、自分の障害を前向きに、積極的に捉えるよう、障害を負っていることで、ひとは傷口が深いほど、人の優しさに、温もりに、許し合いに大きく気付かされることを示唆されていたことに、ドラマチックに組み込まれた早稲田大学と共に歩んだ一期一会の道を、驚きを持って気づいたのだった。
青春時代に東京中央郵便局から、興味本位に後進国の在日大使館へ発送した、借用したワードプロセッサーで作成した産業諜報員を装った英文文書について、その知的財産権を巡り、また同じく興味本位で陥った同性愛を弾劾されたのだった。
高校生の時、フョードル・ドストエフスキーの『罪と罰』が面白く、主人公の法学部生ラスコリーニコフに感化され、自分が興味を持った刑法の大学の講義で触れられた、死刑しか該当しない外患罪を犯したのではと、酒池肉林に耽った悪天子は天罰の、「電気も貫通する鉄拳」を喰らい、警察署に出頭し、統合失調症を罹患した四十年前の昭和の終わりの出来事である。
同時に、その破天荒な公安当局への懺悔こそ、ソクラテスが無実の罪をきせられて、死刑に処され永遠に名を残したように、自分もまた名もなき裁判を経て、来千年紀へ、来万年記へと橋渡しをする、前代未聞の時空旅券のパスポートを携えることを許可してくれたのかも知れない。自分の超時空パスポートこそ、後で触れる、諸言語というものが、得てして歴史的に発生してくることに対して、天文学や暦学を駆使した、訓民正音のハングルが、前代未聞に人為的に創出された異質な言語である点において関連性があるのではと思って、一高校生の平和大使のファンタジーではなく、一初老の平和大使として責任ある叙述を試みようと、この機会に触れてみようと思った。
そうは言うものの、インドから帰国し、お釈迦様のように悟りでも開いたのではと懇談した法律事務所で、パートナーの弁護士から『ネバー・エンデイング・ストーリー』という本を贈呈されたことが、今となっては自分が作家を志望した大きな所以と言える。
あれから四十年の時を経て、華道池坊の千恵先生に拾われ、ご厚誼を賜ることになり、井上先生に東京中央郵便局からJPタワーへと再開発された会場で西国百観音にお詣りをして、正に罰が当たったワープロという筆記具こそ、ぼくの唯一無二の伴侶であることに気づき、禊を済ませた。
言わば、青春時代の在日大使館への英文文書とは、海外との消息において未遂に終わったと言っても良い。しかし、安易な私立文系受験を経て、米国留学で韓国系アメリカ人に世話になった。彼の話す韓国語が、韓国という国が陽の目を見る前のことだったので、予想外であり、自分には青年期の淡い友情に受け取れたが、実は人生において、重要な意味を成したのだった。
留学したリベラル・アーツ・カレッジの教員PhD(博士号)取得率95%以上と優秀な数値を占めるものの、私立文系受験が安易であったならば、その教員が保持していた博士号(PhD)を目標に、教養人たる君子となるか思案していた。
しかしながら、米国留学を終えて、突如暗転し、死刑判決を受けて大統領になった金大中が都内のホテルで拉致された如く、北朝鮮に拉致され行方不明になった横田めぐみが恐怖を味わったように、生身の自分が東大病院に強制移送された、もっとも30年の時を経て、姪が大学見学のため、加賀藩大名の前田斉泰が姫を迎え入れた東大の赤門を訪れた、その夜明けに精巧なバイオ・ロボティクスの夢を見た、正に悪夢と正夢の昭和と令和で明暗を塗り分けた。その時、赤門の地震に対する注意書きに注意を払ったのとシンクロしたのか、東日本大震災に匹敵する能登半島大震災が起きたのだった。30年前は、人生の大事な壮年期を精神科通院によって時間的喪失の犠牲を余儀なくされた。
それでも、鯉登りのように、大学受験という階梯を登ってきた証に、東大の大学病院の大学食堂の鰻を食べて号泣したのは事実だった。ならばもう一度山を登る鯉幟として、韓国長編歴史小説『景福宮の秘密コード』の中で、聾者の女官が、ハングルのピクトグラムの形態模写を通じて、口承伝達に成功すると同時に、そのハングルのピクトグラムが、陰陽五行説を示唆している、何か、現代宇宙科学、現代物理学の先駆けとして、普遍性と多様性、それに一貫性のいずれも兼ね備えた、世宗大王が当時の天文学や暦学を駆使した訓民正音を解剖、解明、再生してみたい。それは、経済的に、体力的に、喫煙環境的に、外交的フィールドが、地政学的にスライドを余儀なくされ、自ずと異国を対象とするのは、東アジアの中でも、朝鮮半島、韓国に落ち着いてきたこともある。
同じ華夷秩序を構成する中でも、統一ベトナムの北ベトナムが、ソ連や中国の支援を受けて統一されたように、台湾問題においても、大陸中国の意向が、台湾の選挙の動向を無視する形で軍事衝突の触発の危険性を招き、やはり社会主義勢力がその権勢を示す一方で、朝鮮半島とという日本からそう遠くはない至近距離の地政学的には、フィリピンから援助を受けていた最貧国が、G20に名を連ねるまでに急成長し先進国入りを果たした韓国と、軍事大国の金王朝として君臨する北朝鮮は、2000年の節目に金大中大統領と金正日総書記のキムキム会談による太陽政策による融和や、文在寅大統領と金正恩総書記の会談などが試みられたが、韓国では保守政権が続き、米中対立、米ロ対立が鮮明化し、また韓国財閥の世界的進出といった、世界地図を象徴した国際政治学が凝縮されているその動向に、米国や日本とタグを組み、韓国こそ自由主義陣営が、朝鮮半島の統一に、主導権の鍵を握るべく、その未来志向を託して、韓国語を究めてみることも薮さかではないと言えるだろう。いや、現時点で、中国経済が減速しているものの、依然その繁栄を誇るドイモイ政策に象徴される「社会主義をベースとした修正資本主義社会」を是とすべきなのか、我々自由主義陣営が、「福祉型の大きな政府」が果たして機能するのか、未だ判明しない。いずれにせよ、漢字文化の先進性が自明の理である。
勉強とは、人生の頂へとのぼる階梯のようなものである。コリアコードを解読することが、何か世界平和の一助になるのではと思い、韓国語学習に励み、母校早稲田で、政治的徒党として政治的思想矯正を図ることに、大隈侯が右足を犠牲にしたのと同様、怪我の功名を負いながらも成功した。言わば、国家天下のために男子が犠牲を厭わないことは本望である。それゆえか、自分は、世宗が極めた訓民正音のハングル創出こそ、幕末、物理学が、オランダから輸入され、『究理学』という訳語で紹介されたように、物事のことわりを極める学問として、森羅万象の自然の摂理の謎を解こうという、世宗の後輩に続こうというのだ。しかも、韓国系アメリカ人が専攻していた数学に、航海図を広げたような、今、後進による参考書によって魅了され、母校の大学の先輩の物理学専攻に憧れ、さらには公認会計士で慶應経済の加藤先輩に続くべく、数学や物理学を極め、今度こそ教養人たる君子になろうと決意した。
それは、核の惨禍を繰り返さず、真の核科学技術の処方箋の有用性を施すべく、それは「文明」という英訳が'civilization'に他ならないからのだから、軍事の民生転用こそが、文明の成立過程の王道であり、核の民生利用のために、特に言えることは、朝の國である将来の統一朝鮮の非核化に、経済安全保障という諸懸案をクリアできれば、平和の距火である核融合の陽こそ灯すべく、核融合科学を研究する目的で物理学を学ぶと同時に、韓国語能力試験6級、ハングル検定1級を頑張ってみても、残りの人生を無駄にせず、充実させるために 遅くはないと、不変不動の真理を探究する学道、即ち、自分が処女作本に書き記した、核融合科学の探究こそ、たとえ過去の精神科受診が医療過誤だったとしても、自分の進路を取るべき人生である。専ら審美性が高貴なゆえに、一過性である花を扱う、ヒロシマ、ナガサキ、チェルノブイリなどの犠牲者の御霊に対してもの仏前供花に通じることからも、大変骨の折れる作業である、華道を千恵先生から学ぶことを通じて、自分の進むべき道の視野や視界が、韓流文化がもたらした日韓民族融和と共に、開眼した。国際政治や核を巡る諸問題が、世界市民の生死の命運と裏腹な以上、国際政治や核に関わる者の、仏前供花の必須性を覚悟することこそ、自らの著作活動と共に、華道を通じた人生観、世界観、宇宙観の道を切り拓く者の「華魂霹靂」に他ならない。
言わば、ハングルは『古代の東洋究理学』、物理学は『現代の西洋究理学』という類似性が指摘できるといって良いだろう。未知の現象世界を探究、解明する点においては、歴史的に蓄積される法学と異なり、医学、経済学と同様、物理学についてもそのことが言える。
それもコロナ禍の令和に入り、韓国系アメリカ人との出会いから、三十余年の歳月を経て、再び文鉉伊という、玄界灘からネーミングを得たような、持って生まれた運命が日韓の架け橋となるような韓国人の親友ができ、拙宅に招待することができた。貴氏は、高校生の時、漢文の先生を志したという。機しくも、自分も漢文に励み満点の領域に達していた。このことは、2003年にロシアに渡航した際、谷中幸雄翁から二宮尊徳を諭されたことからも、朝の國から聖典を賜ったと言って良いであろう。この時点で、早稲田大学政治経済学部合格番号一〇〇五四という数字は、百点満点で漢文の四書五経に励むよう、悪天子から止至善の天子へと解脱する理が備わっていたのだ。以降、五十四歳で処女作本を上梓するまで、濁々たる気に塗れた人生を過ごすことになる。しかし、五十五歳の誕生日を迎え、早稲田大学政治経済学部合格番号一〇〇五四が示す、四書五経に励み、止至善の天子となることに気づいた自分は、既に人生の目標が明明徳になっていた。後は新民に向かって成就するのみでなのである。
実際、文鉉伊が家に遊びに来てくれて実感したのは、「早稲田」のカードは死んでいると思い込んでいたが、ロシア正教会で授かったイコンが見守っていてくれたのか、東方礼儀の国と、おもてなしの日の出づる国の天子の巡り遭わせは、お互いの人格を高め向上心に努めて、あたかも「珍島割れ」の序章の如く、モーセの十戒の奇跡が起きたかのように復活を遂げた。韓国の大陸の色濃い浪漫溢れる直線的な愛情と、島国日本の腕曲的な控えめな抒情的愛情表現を織り交ぜた、国籍や民族や人種の壁を超越した古典に讃えられる普遍的な人類愛を紡ぐことを試みようとしているのだ。
ハングルネオン界隈のバブル経済に鬱つを抜かした赤坂以来、自分のバイタル指数とシンクロするかのように、コロナ禍が明けた令和六年には、春闘でも軒並み賃金の脅威的な上昇を見せ、物価と賃金の好循環によって、あたかも高度経済成長の再創出するかのように、日経平均株価が史上最高値を上回る一方で、終身雇用が保証された中流階級から、自分というのは、禁煙の風潮が強まることで、喫煙者として、また日本経済の担い手が、非正規雇用が主流になるが、年金生活者の生活費は、法令によるマクロスライド制で抑制され、バブル期再襲来かアン・ルイスの楽曲に目醒め、株取引や確定拠出年金iDeCoでこそ米国株高で大幅な運用益を得ているものの、事実上、最下層へと辺鄙な階層へと追いやられたが、文の熱意に尻に火が付き、近未来を先駆ける、人間拡張科学、ヒューマン・オーグメンテーション・サイエンスの統合科学としての本国韓国と接点を持つことになった。
私は、在特会による在日コリアンに対する人権侵害にも、法学部出身の輩として火が付き、中心部の豊かさを捻出する、優位を占める西洋文明覇権に対する、収奪と負荷、外部化の周辺部に追いやられる、グローバルサウスの闘士の一員となるため、2013年御嶽山の噴火が止まない夏、在日本韓国YMCAに駆け込み、以降、韓国人、在日コリアン、韓国語に学識のある日本人らに韓国語を習うことになった。在日コリアンらが、国籍の壁に、参政権や社会権などで制限を受け、差別され、ある意味障害を抱えている現状を目の当たりにして、障害者のひとりである自分は、在日コリアンらと利害を共有することが可能であることが判明し、一致点を見出したのだった。勿論、新大久保コリアタウンの韓国語教室に通ったり、大阪の生野コリアタウンに訪れたりもした。
それでも、西洋文明の原始である西洋古典学、古典ギリシャ語、ラテン語の探究も怠っていない一方で、東洋文明の枢軸部を占めた、仏教思想や、高麗白磁、朝鮮青磁といった、朝鮮陶磁器など、古代印度、中国先進文明が、朝鮮半島を経由して伝播した。
安土桃山時代、秀吉の朝鮮出兵で、世に知られるようになった、日本の交易の中継拠点の宗氏が掌握する対馬藩の中国語、朝鮮語に長け、外交手腕を発揮した儒学者、雨森芳洲の存在を認知し、自分も一念奮起して、大韓民国の黎明期が胎動し出すかのような、対馬諸島を遥か海の彼方に眺めながら、玄界灘の曙を越えて海路で韓国に渡り、韓国語学習を開始していた。
既に渡韓は、仁川国際空港開港以前の1997年以来、通算七回に及び、ソウル、釜山、慶州、海印寺の歴訪を試みた。だからこそ、朝鮮半島から遺産が伝播したその歴史・政治・文化を紐解くことで、日本の古代、中世、近世、近代、現代史の通史の理解と、朝鮮半島について造詣を、双子の東アジア先進国として、日韓関係の良識との有機的連携を図り、歴史的導出としたい。世の中の辛辣を舐めてみないと自分の進路など明確にならないものであり、一方で少年期に受けた衝撃が、そのひとの運命を決定づけてしまうものである。
そんな今日、卓越したサムスン電子や、LG電子などが謳歌する、韓国経済も例外に漏れず、新古典主義経済学派が潮流となり、今日では先進国と同様、一部のリバタリアンの有産階級と、大勢の無産階級とに分断、格差社会が形成されている。しかしながら、私の生まれて初めての韓国、というか朝鮮半島の接点は、幼いときの短波ラジオから聞こえてくる、南北朝鮮がまだ朴正煕、金日成独裁政権のプロパガンダの地下放送だった。その荒々しい男性の声量は、不気味で不快にさせ嫌悪感を抱かせるのは否めなかった。
しかし、大韓民国の民主化、新興国入りを経て、韓流ブームに始まった、日本における韓国語学習ブームの波に乗って、自分もまた、ハングルもさることながら、教材に録音されている、控えめな美しい女性の声に魅了されたのは意外であり、洗練されたKPOPの楽曲の耽美な音色に酔い知れたのだった。そんな中、専ら韓国語の先生の視覚からの美貌を追い、自分の受講も続かず中断が余儀なくされた。が、今日、令和六年三月十四日ホワイト・デーにシオ先生に出会ったのだった。
シオ先生のプロフィールにモス・バーガーでアルバイト経験有りとなっていて、自分も高校生の時、モス・バーガーでアルバイト経験があり親近感が湧いた。シオ先生が音声のみの授業というのは、その音声だけの授業と、最初の自分の韓国語学習の時の美しい女性の録音音声が重なり腑に落ちたのだった。同じ職場がモス・バーガーなら、ぼくの昔のモス・バーガーの同僚に木下優子さんという女性がいて、木下なら朴優子になる。ならば、郵・パックになり、笑い話にもなりそうだが、自分の海外とのもう一つの消息、未遂ではなく実行犯は、新大久保の韓国語の先生が、小包の送り方はと唆した、韓国の友達に何度も送った、お菓子やラーメンを詰めた郵・パックがもう一度の転機に他ならないのだった。作品というものは、抑圧民との共感により生まれてくるものである。ぼくの海外との消息は、意外にも東方礼儀の国と讃えられる大韓民国に媒介されたことにより、凶ではなく大吉と出て、あたかも珍島割れの奇跡を起こし、自分ながらに驚いたのだった。
それは、自ら犯した未遂の在日大使館への英文文書が陰なら、韓国の友達への郵・パックは陽で、過ちと思われた同性愛が、同性婚の合憲判決の報道が相次ぐと共に、何か昨日までの自分と、今日からの自分が入れ替わったような、生活には恵まれなくても、運命の女神が微笑んでくれそうな、陰陽説を象徴する大韓民国の太極旗のような物語が幕明けするのではと、専門性が求められる時代だからこそ、羅針盤となるような、病院に総合診療科があるように、法哲学や西洋ローマ法制史学にハマった法学部出身の輩として、何か文理科学を融合させるような鳥瞰図を示し、統合文学のような話が試みられないかと思って、日韓の空の下に愛の架け橋を育もうと、朝鮮戦争の悲劇について祈りを歌った北朝鮮の歌曲を、日本のフォーク・シンガーがカバーした、イムジン河を今一度思い起こすことで、統一朝鮮半島という未来に向かって、日本社会も、性、障害、国籍などの壁を超えて、真の共生社会を実現するべく、日韓蜜月時代が、何か外交復権を目的に華々しく取り交わされた朝鮮通信使使以来、幾多の長い戦禍や闇の歴史を超えて、暗闇から夜明けを迎えたかのように、今韓流ブームに光り輝く日韓関係の花が咲く、韓国人、在日コリアン、在外韓胞が形成してきた共同体であるコミュニテイが、光からも闇からも、国際社会に逞しく根深く根をおろしてきた勇姿に敬意を表したい。
俗にブルジョワ階級と呼ばれる人々によって形成されるフランス語をエリック・プリユ先生に教わってから十年、かつて学んだプロレタリアート階級を構成した韓国語は、今檜舞台のど真ん中になった。人生一度きりの失恋で受けた致命傷こそ人生の本命である手話を学ぶべく大転換して、令和六年五月より、聴覚障害者やその支援の方々と、ノアの方舟に救われたような、人生で初めての笑々泣々、喜怒哀楽を分かち合う仲間と桃源郷のような世界に迎え入れられた。コリアタウン千葉においてこそ、尊い無償の愛でもってソウルという魂が響き合う、お互いの心を許し合う奇跡が降り注ぐことで、身をもって聖賢の奇跡に触れ、等しく幸福を担保するためにも、味方として役に立ち力となるためにも、身をもって聖賢の人間の道に再生、体現しようと闘志を燃やしたい。障害を抱えることはハンデイではなく、人の温もりや優しさ、許し合いに気づく奇跡に他ならない。
私の好きな言葉
παθήματα μαθήματα. 苦難は学び。
ου το ζηυ, αλλά, το, ευ ζηυ. ただ生きることだけでなく、よく生きること。
ουτοι δυυεχθειυ αλλά δυμφιλειυ εφυυ. 私は憎しみ合うために生まれついたのではない。愛し合うためだけである。
市悦の書は最良の師である。
小医は病を治し、中医は民を治し、大医は國を治す。小品方 陳延之
この星の一番のエネルギーは学びである。河合塾
修己、斎家、治国、天下泰平。大学 三綱領。
新民、明明徳、止至善。大学
政治経済とは、唯に私利私益のみならず、公共公益を図るべし。
百年の怨を恨まず、千年の理を糧とす。
過去の反省は、未来の希望の糧となる。(失敗は成功の母。)
己と闘い、他人を讃える。
稽古照今、一燈照隅。
他利己忘。
楽しみこそ継続、継続は力なり。
Last is well, All is well, My farewell.