オーケストラの人を褒め称える文化
我々クラシック音楽ファンにとって非常に印象的なシーンが、村上春樹『ノルウェイの森』にあります。
主人公が直子と玲子さんとピクニックに行って、三人でブラームスのピアノ協奏曲第2番のレコードを聴きます。これを聴いた玲子さんは、「バックハウスとベーム」とつぶやきます。
クラシック音楽ファンでないとわけがわからないセリフです。これは、バックハウスがピアニスト、カールベームが指揮者、オーケストラがウィーンフィルという1960年代の名演奏のことを指します。
この第三楽章冒頭のチェロの独奏部分を玲子さんはハミングし、「この曲を擦り切れるほど聴いたのよ。本当に擦り切れてしまったのよ」と言います。ピアノが主役のこの曲において、この部分はチェロのいぶし銀の演奏が光る特異な部分です。
小職もクラシック音楽ファンの一人として、当然このCDは持っていましたし、擦り切れるほど(CDなので擦り切れることはないですが)聴き込みました。愛聴盤です。
あるとき、小職はこの曲を聴きに、サントリーホールに行きました。
クラシック音楽コンサートでは、演奏終了後に、際立った演奏をした演奏者を指揮者が立たせて、褒め称える文化があります。これは演奏者にモチベーションを与える素晴らしい文化であると思っているのですが、何度もコンサートに行っているうちに、ほぼ管楽器の演奏者に偏っていることに気づきました。
確かに、管楽器(クラリネットやオーボエやピッコロなど)は印象的なフレーズをソロで吹くことが多いため、非常なる緊張感の中で演奏することになります。なので彼らの活躍を褒め称えるのは首肯しうるのですが、チームプレイであるオーケストラにおいて、常に管楽器が立たされることに違和感を感じていました。
ときには、バイオリン奏者が立たされることもありますが、そもそも、オーケストラのリーダーであるコンマスはバイオリン奏者なので、割と日の当たる場所にいます。常に主旋律を弾くので、合奏の主人公であるとも言えます。
圧倒的に日が当たらないのは、チェロやコントラバスです。顔を真っ赤にして必死に演奏しているのですが、よほど耳を澄まさないと、彼らの奏でる音が聴こえません。合奏においてどんな貢献をしているか、我々素人にはわかりません。しかし彼らは一所懸命に演奏しています。そんな彼らに日が当たることはないのか、と以前から思っていました。
その日、ブラームスピアノ協奏曲第2番の演奏は素晴らしいものでした。その演奏ぶりは今でもよく覚えています。
指揮者は、その演奏後、際立った演奏をした人を立たせたのですが、なんと第三楽章冒頭のチェロ独奏を弾いたチェロ奏者を立たせました。チェロがそんな場で立つのを初めて見ました。オーケストラの他の奏者たちも、あたかもそれが当然であるかのように、拍手をして褒め称えました。
それほど曲のかなめとなるフレーズですし、それを弾き切った奏者には多大な拍手をしてしかるべきでした。しかし何よりも感動したのは、それを当然であるかのように褒め称えた他の奏者のことでした。
「ああ、この組織には、縁の下の力持ちを褒め称える文化がある!」
当時、小職は会社の管理部門に居て、縁の下の力持ち的な仕事をしていました。組織には、常にそんなロールの人がいます。縁の下の力持ちに、ちゃんとした評価と称賛がない組織は永続性がありません。難しいんですけど。
そんなことを考えさせられたコンサートでした。
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『人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。』(竜馬がゆく) 私の人生の主題は、自分の能力を世に問い、評価してもらって社会に貢献することです。 本noteは自分の考えをより多くの人に知ってもらうために書いています。 少しでも皆様のご参考になれば幸いです。