JW452 龍神淵
【崇神経綸編】エピソード27 龍神淵
第十代天皇、崇神天皇(すじんてんのう)の御世。
紀元前36年、皇紀625年(崇神天皇62)7月2日から数ヶ月後。
ここは、磯城瑞籬宮(しきのみずかき・のみや)。
崇神天皇こと、御間城入彦五十瓊殖尊(みまきいりひこいにえ・のみこと)(以下、ミマキ)の元に、三人の人物が参内(さんだい)していた。
すなわち、彦太忍信(ひこふつおしのまこと)(以下、まこと)。
彦坐王(ひこいます・のきみ)(以下、イマス)。
そして、日嗣皇子(ひつぎのみこ:皇太子のこと)の活目入彦五十狭茅尊(いくめいりひこいさち・のみこと)(以下、イク)である。
三人は、前回から引き続き、狭山池(さやまのいけ)の大蛇伝説を語るのであった。
まこと「美しい男女の若者が現れ、私たちは、狭山池に住む大蛇で、幸せに暮らしているけど、池だけの暮らしは息苦しいので、河合(かわい)の西除川(にしよけがわ)沿いにも祠(ほこら)を建てて欲しいと言ってきたんやで。そこなら、身体をいっぱい伸ばして楽しめると言ったんやで。」
イマス「されど、夢のことゆえ、定かならず。男は、迷うておりもうした。そんなある日・・・。」
イク「井戸で水を汲(く)んだ時、お金が入っていたんだよね。これを見て、信じたんだって。」
まこと「そして、川に祠を建てたんやで。でも、男は、所在を、誰にも言わなかったんやで。」
イマス「そういうわけで、未だに所在は謎(なぞ)のままという伝承にござりまする。」
ミマキ「なるほどのう。池に住む大蛇か・・・。面白き話じゃ。されど、溜池(ためいけ)の水は、使うために有る。池干しの際は、如何(いかが)致す? 大蛇が住めなくなるのではないか?」
イク「大王(おおきみ)も、そう思うよね? でも、大丈夫! ちゃんと考えられてたんだよ。」
イマス「池干し中は、西除川の滝壺(たきつぼ)に移り住んでもらっておったのです。」
ミマキ「なるほど・・・。池の水が溜(た)まるまでの仮住まいといったところじゃな?」
まこと「されど、江戸時代になって、どういう理由か、滝壺を埋めてしまったんやで。」
イク「大伯父のくせに伯父上? たしか、安政年間(あんせい・ねんかん)だよね?」
まこと「その呼び方、どうにか、ならないのか・・・と思ってるんやで・・・。」
イマス「とにかく、滝壺を埋める工事で、多くの怪我人(けがにん)が出たのでござる。」
まこと「それを見て、人々は、大蛇の祟(たた)りではないかと恐れたんやで。」
イク「そういうわけで、西暦1858年(安政5)に、滝壺の代わりとなる、大きな淵(ふち)を造ったんだよね。そして、祠(ほこら)も、そこに遷(うつ)したんだよ。」
ミマキ「そこが、二千年後の社(やしろ)というわけか・・・。」
イマス「ちなみに、淵とは、流れの無い、水底(みなそこ)の深いところを指しまする。」
まこと「こうして、池干し中も、大蛇は、淵に溜(た)まった水に住めるようになったんやで。」
イク「これが、龍神淵(りゅうじんぶち)です。直径27m、深さ5mなんだよ!」
イマス「擂鉢状(すりばちじょう)の『くぼみ』となっておりもうす。」
こうして、狭山池の大蛇伝説を紹介することに成功したのであった。
それから数ヶ月の時が流れた。
すなわち、紀元前36年、皇紀625年(崇神天皇62)10月。
「ミマキ」は、新たな宣言をおこなった。
ミマキ「依網池(よさみのいけ)も造るぞ!」
次回、依網池についての解説がおこなわれる。