倭国大乱を経て、時代は進みました
欠史八代 第十四話 第九代 開化天皇
開化天皇の皇妃と皇子
※(記)は『古事記』のみ記載
1
皇后: 伊香色謎命(物部氏)
─子: 御間城入彦五十瓊殖天皇(崇神天皇)
─※『古事記』では妹として御真津比売命が記されています。
2
妃: 丹波の竹野媛(丹波大県主由碁理の娘)
─子: 彦湯産隅命
3
妃: 姥津媛(和珥臣 『古事記』は意祁都比売命)
─子: 彦坐王
4
妃: 鸇比売命(葛城垂見宿禰の娘)(記)
─子: 建豊波豆羅和気王(記)
1.母系は物部氏
第八代孝元天皇は、物部氏の鬱色謎命を皇后とし、さらに鬱色謎命の姪の伊香色謎命を妃としました。そして第九代開化天皇は継母(実の母親ではない父親の妻)の伊香色謎命を皇后としました。
鬱色謎命の子である開化天皇や大彦命。伊香色謎命の子である第十代崇神天皇は、母系で言うといずれも物部氏ということになります。さらに大彦命の娘 御間城姫が崇神天皇の妃となって第十一代垂仁天皇を産みます。
2.丹波の首長
妃に迎えた竹野媛を、『古事記』は丹波大県主由碁理の娘と記します。由碁理についてはよくわかりませんが、私はあまり信用していない『海部氏勘注系図』によると伊香色雄命の孫の武諸隅だとします……。
四道将軍の丹波道主は通説では彦坐王の子であるとされますが、『日本書紀』垂仁紀に「一説によれば彦湯産隅命の子であるという」とも記されます。
竹野神社
竹野媛が晩年帰郷した際に天照皇大神を祀ったのが創始とされる旧竹野郡唯一の式内大社です。傍には日本海三大古墳の一つ神明山古墳や弥生時代の集落跡があります。また、天照大神を祀る本殿隣には斎宮神社があり、竹野媛命、日子坐王命、建豊波豆羅和気王が祀られています。
竹野媛が天照大神を祀ったのが創始ならば、子の彦湯産隅命ではなく、なぜ異母の彦坐王や建豊波豆羅和気王を斎宮神社に祀るのかという疑問はありますが…。
3.彦坐王(日子坐王)
開化天皇の皇子の中で最も注目されるのが彦坐王です。と言っても、『古事記』には、子や孫の名前、崇神天皇の命により旦波国(丹波国)に遣わされ玖賀耳之御笠(国神の御笠)を討ったことなどが僅かに記されますが、『日本書紀』には事績は無く、子の丹波道主命が四道将軍の一人として丹波に派遣されたと記されるにとどまります。
岐阜で伝わるのですが、「丹波を平定した彦坐王は、丹波国を息子の丹波道主に託し、神大根王(八瓜入日子王)と共に岐阜に移り住んで開拓を進めた。そして、この岐阜の地で葬られた」と。そのように考えることも出来ますが、彦坐王の系図をつくって考えてみました。わかる範囲で子や孫が始祖となる氏族が治めた地域も記しています。この系図(娶った妃の勢力の地域に注目)からすると、むしろ逆で、彦坐王はまず山代(山背)・近江・美濃に地盤を築いて、その後、(日本書紀の記すように)子の丹波道主が丹波を征討したのではないかとも考えられます。
倭国大乱と開化天皇
話はそれますが、私の想定する開化天皇の時代は、2世紀後半から3世紀はじめです。いわゆる「倭国大乱(146-189)」で卑弥呼を共立しておさまったと中国史書に記される時代と符合します。
この「欠史八代」シリーズ最初の記事で書いたように、私は大和は邪馬台国でもなければ、倭国大乱にも主体的に関わっていなかったと思っていて、むしろ大乱がおさまった後に大和政権が全国制覇を開始したと考えているので、興味のある方は過去記事をご覧いただければと思います。
すみません、彦坐王の話に戻します。いずれにしても、後裔氏族が山背・近江・伊勢・美濃・丹波・丹後など各地に広がり、関連地域の神社に伝承が伝わります。そうした彦坐王の伝承地を紹介したいと思うのですが、一度に書けるような数ではないので後日別シリーズで紹介していきます。
今回は、彦坐王の墓と岐阜市の伊波乃西神社だけを紹介しておきます。
日子坐王墓
伊波乃西神社に隣接して「日子坐王墓」があります(宮内庁治定)。
伊波乃西神社
御祭神は日子坐王・八爪入日子王、岐阜市岩田西。
建豊波豆羅和気王とは
4
『古事記』は、道守臣・忍海部造・御名部造・稲羽忍海部・丹波之竹野別・依網之阿毘古らの祖と記します。
先述の竹野神社摂社斎宮神社の御祭神の件ですが、『古事記』に記されるように「丹波之竹野別一族の祖が建豊波豆羅和気王」だから竹野媛の子彦湯産隅命ではなく、建豊波豆羅和気王が祀られているのだと思います。しかし、なぜ葛城(垂見宿禰)の娘鸇比売命の子 建豊波豆羅和気王が丹波竹野別になったのかはわかりません。
依網之阿毘古は、以前別記事で紹介したことがあります。「依羅吾彦一族が祖神の建豊波豆羅和気王を祀った」とする摂津国住吉郡の式内名神大社 大依羅神社です。依羅吾彦垂水が、神功皇后の新羅征討に際し、住吉神の御霊を祀るために祭の神主に任命されたと日本書紀に記されます。
最後は開化天皇の宮と陵を紹介してこの巻を終えたいと思います。
春日之伊邪河宮
「ならまち」にもほど近い奈良市本子守町にある率川神社。初代神武天皇の皇后 媛蹈鞴五十鈴姫命と父神 狭井大神、母神 玉櫛姫命を祀ります。
こちらの率川神社付近が伝承地とされていますが、石碑などはありません。
春日率川坂本陵
奈良市油阪町。三条通りホテルフジタ奈良※横の通路から入ります。いつものひと気のない陵とは違い奈良の目抜き通りです(笑) 念仏寺山古墳とも呼ばれる全長約100mの前方後円墳。築造時期5世紀前半なので・・。
墓をあばくことを良しとはしませんが、こうして明らかに違うものを放置するのもいかがなものかと思います。
ご挨拶
2024年もいよいよ終わりに近づいてきました。今年の2月から始めたnoteですが、皆さまのおかげで70の記事を投稿することができました。
皆さんからいただく「スキ」や「コメント」が大きな励みになっていて、続けてこれたのも皆さんの支えがあってこそだと思っています。本当にありがとうございます。
今年一年、大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。素敵な年末年始をお過ごしください。
kiki