見出し画像

物部氏が独占! 大和政権で何があったのか?!

欠史八代 第十三話 第八代 孝元天皇


 孝元天皇も事績が記録されていませんが、帝紀に記される皇妃や皇子に注目し、どのような時代だったかを考えたいと思います。


皇后と妃について

 孝元天皇の皇后は鬱色謎命うつしこめのみこと、妃は伊香色謎命いかがしこめのみこと埴安媛はにやすひめです。埴安媛は第十代崇神天皇の時代に反乱を起こした武埴安彦たけはにやすひこの母です。

系図をつくってみました。埴安媛と孝元天皇皇女倭迹迹姫は省略しています。

系譜 ※一部省略しています


  できるだけわかりやすく作ったつもりですが、いかがでしょう。



 『先代旧事本紀』によると、初代神武天皇から続いて初期の天皇の政権のトップ(申食国政大夫おすくにのまつりごともうすまえつぎみ足尼すくね大臣おおおみなど)は、すべて饒速日命にぎはやひのみことの子孫(物部氏)が継承していましたが、一方で皇后や妃は輩出していませんでした。

しかし、孝元天皇の代になると、政権の主要な役職(大臣、大尼、大禰)を物部氏が占め、さらに娘を入内させ、皇后と妃も物部氏が独占しました。後の藤原氏が娘を天皇に入内させて権力を握る「外戚政策」を展開した状況と似ています。



物部氏台頭の裏で・・


 少し話の視点を変えて物部氏の台頭の裏で何があったのか考えてみます。

 『日本書紀』によれば、第十代崇神すじん天皇の御代に疫病で人民の半数以上が死んだとされます。疫病は大物主神おおものぬしのかみの神意(祟り)であり、大物主神の子孫である大田田根子おおたたねこを神主として祀らせることで疫病は収まりました。大物主神は大己貴神おおなむちのかみの幸魂奇魂であると記されます。その大己貴神の直系子孫が磯城県主しきあがたぬしとして初期天皇に連続して皇后を輩出していました。しかし、崇神天皇の御代には、その子孫である太田田根子の所在がわからない状況になっていたということです。

 皇后を輩出してきた磯城県主一族の娘は、巫女として神の神託を告げる役割を担う存在でもあったのだと思います。古代には「卑弥呼」にイメージされるように、神と交わる「かんなぎ」(女性とは限らない)が各地にいたと考えられ、初期の天皇の時代の大和では、それが磯城県主の娘であっただろうと想像します。


 【記紀】の記述では、磯城県主一族が大己貴神の直系子孫であることは明らかですが、後の『新撰姓氏録』では「志貴県主」と字を変え、彦湯支命ひこゆきのみこと(饒速日命の孫)を祖とする一族だと記されます。この「磯城県主」と「志貴県主」は別の一族だと考える必要があります。

 先の自作系図には載せませんでしたが、孝元天皇と鬱色謎命うつしこめのみことの間には倭迹迹姫命やまとととひめのみことという皇女がいます。名前が大物主神の妻となった倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめと非常によく似ていますが、これは「やまと・とと(ひ)」が固有名詞ではなく、大和の「かんなぎ」に使われた一般名称だったのではないかと考えます。倭迹迹日百襲姫と倭迹迹姫は出自が違います。


第七代孝霊天皇までは磯城縣主が皇妃を輩出していたことが記されますが、第八代孝元天皇以降、磯城県主一族は歴史の舞台から姿を消します。


そうしたことから、孝元天皇の時代に、磯城県主である大己貴神の直系一族は大和を追われ、物部氏が祭祀も担うようになったのではないかと想像するのです。倭迹迹姫は物部氏の「巫」であったのだと思います。


ところが・・


 崇神天皇の御代に疫病が蔓延して国が大いに乱れたため、物部氏の「巫」の呪力・霊力が疑われます。それで、再び大己貴神の子孫を探す必要に迫られたと私は想像しています。


大和を後にした大己貴神直系子孫はどこにいたか。大田田根子を見つけだしたのは現在の大阪府堺市、昔は河内国と呼ばれていた場所(後に和泉国に分割)です。そして淡路島…四国…。


 先日四国へ行って関連する倭迹迹日百襲姫の記事を書きました。その四国に伝わる伝承をヒントに考えると、(世代が違うので倭迹迹日百襲媛命には娘がいたと仮定します)、倭迹迹日百襲姫(娘)には優れた呪力・霊力があり、崇神天皇の御代に大己貴神の血統を継ぐ巫女として再び大和へ連れ戻されたとしたらどうでしょう。その倭迹迹日百襲姫(娘)の占いで太田田根子を見つけ出し大物主神を祀って国はおさまったという筋書きです。


 事績が記されていないので注目度の低い孝元天皇ですが、大和政権の内部で物部氏が台頭する大きな変化のあった時代だったと思います。私の想定する時代では2世紀半ば。ちょうど中国史書に「倭国大乱」(146-189)があったと記される頃のことです。



大彦命


 孝元天皇と鬱色謎命うつしこめのみことの皇子に、後に四道将軍として北陸道へ派遣される大彦命がいます。そして大彦命の王子である武渟川別命たけぬなかわわけのみことも四道将軍の一人として東海道に派遣され、任務を終えた二人が再開した土地を「会津」(福島県)と言うと『古事記』は記します。

大彦命は安倍臣、かしわで臣、阿閇氏あへうじら七族の祖とされます。北陸や東国へ派遣されたことから、その地方に多く伝承が残ります。特に1968年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣の銘文に刻まれた「オオヒコ」の名は、この大彦命ではないかと考えられています。後日、崇神天皇の記事で大彦命に再びふれますが、今回、三重県伊賀市にある敢國神社へ行ってきましたので、そちらを紹介します。


敢國あえくに神社

 大彦命を主祭神として祀る神社です。社格は、式内大社、伊賀国一宮、旧国幣中社、別表神社。大彦命の王子 彦背立大稲輿命ひこせたつおおいなこしのみこと(武渟川別命の弟)を祖とする阿閇氏の氏神とされる神社です。


鳥居
拝殿
本殿を撮ろうとしたのですが…
末社の大石社


御墓山古墳

墳丘長188m、三重県最大の前方後円墳で、大彦命の墓と伝えられますが、5世紀の築造ですので残念ながら時代が違います。



孝元天皇の記事最後は、宮の伝承地と御陵を紹介しておきます。


孝元天皇の宮と御陵

軽境原宮かるのさかいはらのみや


岡寺駅の踏切前に碑があります。奥に見えるのが牟佐坐むさにます神社
近鉄 岡寺駅
観光案内図に宮伝承地と陵の位置をマークしてみました
 鳥居
由緒書
 身狭(牟佐)は渡来人東漢氏やまとのあやうじの本拠とされるのを根拠に、「孝元天皇が渡来人云々」という記事を見たことがありますが、阿知使主から始まる東漢氏が渡来したのは応神天皇の御代で4世紀末から5世紀始め頃のことです。孝元天皇は(私の想定では)2世紀半ばですから150年ほど時代が違います。例えば、今年日本に帰化した外国人が明治維新で活躍することはありえませんよね。


劔池嶋上陵つるぎのいけのしまのえのみささぎ

 『延喜式』諸陵寮では、東西2町南北1町(214×107m)、守戸(天皇陵の守護、清掃管理に従事した御陵番)5烟(軒)と記されます。現陵は元禄の探陵で治定されたものです。

軽の地にある石川池(剣池)に半島のように突き出した陵です。
カルガモの和名は、「軽の池」に由来するのだとか。




欠史八代シリーズ次回は、「第九代開化天皇」です。 
最後までお読みいただきありがとうございました。





いいなと思ったら応援しよう!