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オススメの社寺⑨ 紀伊国一宮 伊太祁曾神社
伊太祁曽神社
和歌山県和歌山市伊太祈曽558 社格 式内社(名神大)、紀伊国一宮 御祭神 五十猛命 配神 大屋都比賣命、都麻津比賣命いずれも五十猛命の妹神
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五十猛命は新羅の神なの?
ご祭神の五十猛命。Webで「(朝鮮半島にかつてあった)新羅の神」と書いてあるのをいくつも見ました。なぜそう書かれるのか? 素戔嗚尊や御子神の五十猛命が朝鮮の歴史書に登場することはなく、出典は『日本書紀』に他なりません(『古事記』には記載はありません)。根拠となるのは『日本書紀』素戔嗚尊の八岐大蛇の段の 一書(第4)に
高天原を追放された素戔嗚尊が、その子五十猛命を率いて、新羅の国に降りられて、曽尸茂梨においでになった。そこで「この地に居たくない」と土で船を造って東へ渡り出雲へいった。
(中略)
はじめ五十猛命が天降られたとき、多くの樹の種子をもって下りられた。しかし韓の地には植えないで、全部持って帰られた。そして筑紫からはじめて、大八洲国全体にまきふやしていってとうとう国全体を青山にしてしまわれた。だから五十猛命を有効の神というのである。これが紀伊国に鎮座しておられる大神である。
※『日本書紀』は、本文以外に「一書曰く」として異伝を載せていますが、当該個所もその異伝として記されたものです。
もう一つの理由は、京都の八坂神社が「斉明天皇二年(656年)高麗の僧 伊利之が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を遷し当地に奉斎したことに始まる」と社伝に伝えることです。
全国的に素戔嗚尊を祀る神社は多いです。ほとんどは牛頭天王を祀っていたものを、明治政府が神仏分離で祭神を素戔嗚尊に変えることを求めたからです。京都の祇園社も八坂神社と改め祭神を素戔嗚尊に変更しました。
祇󠄀園精舎の守護神 牛頭天王がなぜそれほど広く信仰されたか。御霊信仰、祇園御霊会など祇園社の歴史を辿らないとわかりにくいと思いますが、要は「疫病」です。牛頭天王は疫病を防ぐ神で、薬師如来を本地仏とし、スサノオと同体であるとされました。今でさえ、コロナであれほど騒いだわけですから、医療の発達していない時代、民衆は疫病をどれだけ恐れたか容易に想像出来ます。平安末期から中世には全国的に牛頭天王を祀る神社が増え、式内社であっても、中には元の祭神を押しのけて牛頭天王を祀る古社まで現れます。
全ては平安時代以降に、神仏習合と疫病退散によって形づくられたものであって、新羅の牛頭山も後付でしょうね。
トンデモ説には一定のパターンがある!?
Webで見かけるいわゆるトンデモ説には一定のパターンがあります。
①まず、○○に書かれているとか、○○が言ったとか、著名な○○を持ち出して箔付けを怠りません。
例)「『日本書紀』に記される」。本文でないことは書かない。
②自説へ展開するための都合のよい部分を切り取ります 。
例)「高天原を追放された素戔嗚尊が、その子五十猛命を率いて、新羅の国に降りられて、曽尸茂梨においでになった」
その後の記述を省くとずいぶん印象がかわります。
③読み替えてしれっと断定します(ここポイントです)。
「新羅の曽尸茂梨とは朝鮮古語でソウル(首都)という意味。牛頭山の比定地は◯◯などいくつかある。曽尸茂梨に天降った素戔嗚尊は・・」。
④断定した事柄を既成事実のように特定の思想・自説へ展開していきます。
私は素戔嗚尊が新羅の神とは思えませんが、まぁ、そこは各自ご判断ください。ちなみに、素戔嗚尊が実在したとするなら、それはまだ「新羅」という国が興る前の時代だと思いますので、『日本書紀』の記述にも問題がありますけどね。
『日本書紀』を知ろう
『日本書紀』は、681年に天武天皇の命で始められた国史の編纂事業で、途中、691年に持統天皇が18の氏族に対して祖先の纂記(氏族の系譜や事跡などを記した文書)の提出を求めるなどして、720年に完成し元正天皇に奏上されたものです。
持統天皇が纂記の提出を求めたとされる18の氏族とは、
大三輪(大神)、雀部、石上(物部)、藤原、石川(蘇我)、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、安曇氏です。
本文には採用されませんでしたが、いずれかの氏族に独自の伝承があったのだと思われます。
また、一書(第5)には、
「韓郷には、金銀が満ちている。わが子の治める国からそこに渡ろうにも船が無くては渡ることができまい」と仰せられて、お顔の髭を抜いてまかれた。するとスギになった。眉の毛はクスノキになった。また胸の毛を抜いてまかれた。これがヒノキになった。そこでこれらの木をそれぞれの用途をきめて、次のように仰せられた。「スギとクスノキ、このふたつの樹は船とせよ。ヒノキは宮をつくる材料にせよ。コウヤマキは青人草(国民)の奥津棄戸(墓所)の棺をつくる材料にせよ。また食料として木の実をたくさんまき植えよ」と。この素戔嗚尊の御子神を名づけて五十猛命と申しあげる。この神の妹には大屋津姫命、つぎに都麻津姫命がある。この三柱の神もまた樹木の種子をまかれた。そこで紀伊国にわたし奉った。この後、素戔嗚尊は熊成峯にましまして最後に根の国に入られた。
と記されます。こちらの樹の話しは興味深いです。
以下は私の妄想話し
樹種 自生地
スギ 日本
クスノキ 日本・台湾・中国・済州島(韓国)・ベトナム
ヒノキ 日本(台湾)
コウヤマキ 日本
※植林ではなく自生していることを条件とします。日本でも北海道には自生していないものがあります。植物に関して詳しいわけではないので、もし間違っていたらご指摘ください。
素戔嗚尊が追放された高天原を、あくまで神話として天上界にあると考えるのか、地上のどこかに比定するのかによりますが、後者の場合だと、稲作が伝わったと同時に一部の植物も日本に持ち込まれたとされており、クスノキは船材はもちろん、防虫・鎮痛薬としても使われる帰化植物として知られているそうです。その生育地からすると、「南方から来た」と考えるのが妥当ではないでしょうか。
以前も妄想話しで書きましたが、出雲のルーツは「呉」にあるのではないかと。。
或いは、大己貴神(大国主神)と共に国づくりを行った少彦名神が伝えたのかも知れません。薬の神様でもありますしね。
また話しが脱線してしました💦
伊太祁曾三神は、上古には今の日前國懸両神宮の宮地に祀られ(檜隈宮)、木の国開闢の祖神 紀伊坐大神と崇められていたといいます。文武天皇の御代に三神の分霊がなされたことが『続日本紀』に記されます。覚鑁上人が新義真言宗 根来寺を創建した時、鳥羽上皇より此地を寄進され伽藍を建立(矢田伝法院)、伊太祁曽神社を奥の院とした。神社領域に神宮寺、僧坊、護摩堂、鐘楼が建てられ、伊太祁曽三神を阿陀、地蔵、弁財天の垂迹神とし両部神道となった。貞享4年(1687年)仏家の祭典を退け奥の院を廃し唯一神道にかえったとしるされているようです。(小林国太郎著 伊太祁曽神社由緒記参照)
本地垂迹説 仏こそが神祇(日本の神)の実の姿「本地」であり、神祇は仏が衆生を救済するために姿を変えた仮の姿「垂迹」であるという考え方。
両部神道 両部とは、金剛界と胎蔵界のこと。これを伊勢の内宮・外宮にあてはめ密教の教説から説いていきます。一般的に真言宗の影響を受けたものを両部神道(三輪流神道など)、天台宗の影響を受けたものを山王神道と呼びます。
唯一神道 吉田兼倶が唱えた神道説。吉田家の本性は亀卜の職能をもって朝廷に仕える卜部ですので、卜部神道とも言います。密教、陰陽道、道教などの教説も取り入れたものですが、「神こそが仏の姿であり、仏は神の仮の姿である」という神本仏迹説を主張します。「神道」を万物の根源と定義し、諸教もそれに包摂されるとする根本枝葉果実説も主張しました。
日本古来の神々と、仏教が習合して(陰陽道や道教、儒教も)日本文化が形成されていったことは間違いありませんが、神道側からすると本地垂迹説や両部神道なるものは失礼な話しだし、仏教側からすると唯一神道の主張など「何を言うか」みたいなものだったと思います。紆余曲折ありましたが、今のように神も仏もそれぞれがそれぞれに信仰されるのが良いと思いますね。
素戔嗚尊や五十猛命、牛頭天王もそうした歴史の変遷の中で様々に語り伝えられてきましたが、「天照大御神は大日如来の垂迹神である」などと言う人は今はほとんどいないと思います。ですから素戔嗚尊を牛頭天王と関連づけて語ることも、もうやめたほうが良いのではないでしょうか。後付けの事を元に起源を主張することも。