物部氏の伝承地を訪ねる⑬ 水主神社と天照御魂神 まとめ
水主神社 (京都府城陽市)
今は無人の小さな神社ですが、『延喜式神名帳』に祭神十座も記されるのはこの神社だけだと思います。
また『新撰姓氏録』には、「山城国神別 天孫 水主直 火明命之後也」と記されていて、水主直は火明命の後裔にあたるとします。このことは、渡会延経著『神名帳考証』でも、水主直や榎室連は火明命の後裔と記したあとに、天照御魂神については天照国照彦火明尊と記します。
『延喜式神名帳』に、天照御魂神と山背大国魂神以外の八柱は具体的に記されていませんが、神社由緒によると、
天香語山命-天村雲命 -天忍男命-建額赤命-建筒草命-建多背命-建諸隅命-倭得玉彦命-玉勝山代根古命(山背大国魂命)
『先代旧事本紀』にみる尾張氏一系の祖神です。
天照御魂神について まとめ
これまで2回、天照御魂神について書いてきましたが、今回は一応ここまでに自分的に腑に落ちたことをまとめてみます。
饒速日命については、『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)には、その出自に関する記載がありません。しかし、平安初期815年に編纂された『新撰姓氏録』では、尾張氏や海部氏などの祖先である火明命を「天孫」とし、物部氏・穂積氏などの祖先である饒速日命を「天神」として区別しています。この区分は、氏族の系譜における神格の違いを示しています。
「天孫」とは、瓊瓊杵尊から数えて三代以内に分かれた、天照大神直系の子孫を指します。天火明命は、『古事記』や『日本書紀』において、瓊瓊杵尊の兄または子と記されています。このため、天火明命は「天孫」とされています。
このようにして、815年の『新撰姓氏録』の記載では、火明命と饒速日命は区別されていたことがわかります。
次に『延喜式』について考えてみます。これは、醍醐天皇の命令によって905年に編纂が始まり、927年に完成した法典です。その後、改訂を重ねて967年に施行されました。『延喜式』の巻九と巻十は「神名帳」と呼ばれ、氏族についてではなく、編纂時に官社として認定した神社が記載されています。
『延喜式神名帳』には、天照御魂の社号を持つ神社が記載されています。これ以前の文献には、天照御魂神という神の名前は見られません。
つまり、815年から967年の間に、天照御魂神という神が誕生したと考えられます。この点に注目すると、『先代旧事本紀』の存在が浮かび上がってきます。『先代旧事本紀』の編纂時期については諸説ありますが、有力な説としては815年から905年の間とされています。『先代旧事本紀』には「天照御魂神」という記述は直接ありませんが、饒速日命と天火明命は同一神としています。
『先代旧事本紀』によれば、天孫である瓊瓊杵尊の兄として饒速日命が登場し、その名前は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」とされています(天神本紀より)。一方で、火明命(ほあかりのみこと)は瓊瓊杵尊の子としています(皇孫本紀)。
また、『先代旧事本紀』では、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命の子供として、兄の天香語山命と、異母弟を宇摩志麻遅命が記されています。天香語山命の子孫が尾張氏であり、宇摩志麻遅命の子孫が物部氏とされています。
物部氏も尾張氏も、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」という同じ祖神を持つ氏族ということになります。
ちなみに、多くの似た名前が登場するためここで分類しておきます。
饒速日命の呼び名には、以下のようなものがあります。
●天照御魂神
●天照国照彦火明櫛玉饒速日尊
●櫛玉饒速日命
●饒速日命
(邇芸速日と表記されることも)
天火明命の呼び名には、以下のようなものがあります。
●天照御魂神
●天照国照彦天火明尊(命)
●天火明命
●彦火明命
●火明命
※特に重要な点は、「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」と「天照国照彦天火明尊」は別神であると考える必要があることです。
※天照御魂神については、祀る神社によって、『先代旧事本紀』説か、『日本書紀』説か、その違いを見極めるが必要があります。
『先代旧事本紀』の記述を基にすると、天照御魂神は天火明命ではなく、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊、すなわち饒速日命を指すことになります。また、『先代旧事本紀』は天香語山命を饒速日命の子としているため、天火明命から天香語山命へつながる系譜を主張する氏族の説は仮冒という事になります。
一方、『神名帳考証』などでは、天照御魂神を火明命としています。この考えの根拠となっているのは『日本書紀』です。『日本書紀』の巻第二の一書(第六)では、天火明命の御子である天香山命が尾張連らの祖神と記されています。また、第八でも、天照国照彦火明命を尾張連の祖神としています。これにより、『日本書紀』や『古事記』の記載を裏付けに『新撰姓氏録』では尾張氏を「天孫」としています。ただし、『日本書紀』の弱点として、その後の系譜の記載が断片的であることが挙げられます。そのために、天火明命から天香山命を始祖とするものの、途中で『先代旧事本紀』から引用した系譜を用いている神社の由緒などが見受けられます。
『先代旧事本紀』は、物部氏の歴史書と言っても過言ではありません。物部氏は、日本の建国初期において重要な役割をはたしたとされ、そのことは『日本書紀』からも推測できます。しかし、『日本書紀』では、物部氏の祖先である饒速日命が天磐船で天降ったと記されるものの、その出自に触れられていません。これにより、現代風に言えば、「報道の自由を行使して特定の情報を報じない」とも解釈でき、さまざまな説が生まれる要因となっているのです。
『先代旧事本紀』が完成したのは平安時代のことです。平安京遷都以降に衰退が著しい物部氏に関係する人物によってつくられたとされています。『新撰姓氏録』の後に成立したこの文献は、「天孫」ではなく「天神」とされた物部一族が抗議や復権を目指して創作したものとも言えます。しかし、『記紀』には記されていない記述が多いため、古い記録が存在しており、それに基づいて再構成された可能性もあります。
一方、尾張氏は多くの皇后を輩出してきた名家ですが、大和政権の中枢で活躍したとは必ずしも言えません。しかし、『日本書紀』の編纂を命じた天武天皇(大海人皇子)は、壬申の乱で大友皇子軍を破り、勝利をおさめて皇位に就いたことはご存知の通りです。この壬申の乱で最大の貢献をしたとされているのが尾張氏です。ひねくれた見方をすれば、その功績によって、歴史書で祖神である火明命の評価が高まったと考えることもできますが、実際のところはどうなのかわかりません。
『先代旧事本紀』という文献をどのように評価するかが一番のポイントですね。
以上がここまでのまとめです。この「物部氏の伝承地を訪ねる」シリーズは、引き続き 物部氏と尾張氏の対比を含め、天火明命を祖とする尾張氏の伝承地も含めて訪れてみたいと思います。シリーズ名を次回から、「物部氏・尾張氏らの伝承地を訪ねる」に変更してお届けします。
最後までお読みいただきありがとうございました。