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神功皇后、摂津の港から出航する

神功皇后の伝承地を巡る ② 


城南宮

 平安京遷都に際し、国常立尊くにのとこたちのみことを、八千矛神やちほこのかみ息長帯日売尊おきながたらしひめのみことに合わせ祀って城南大神と崇め、都の守護と国の安泰を願い創建された城南宮。関西では方除けの神社として有名です。

「曲水の宴」が催される城南宮の神苑は、いま放送されているNHKの大河ドラマ『光る君へ』の主人公・光源氏の四季の庭を備えた大邸宅「六条院」に触発された白河上皇が造営し、院政の拠点とした場所(城南離宮)でもあります。

 神功皇后が祀られているとは言え、
時代が違いますが


その城南宮の東の鳥居をご覧ください。

今回はこの北風氏の話しです。


 『日本書紀』は、仲哀天皇がわずかの供の者と紀伊から穴門へむかったと記します。熊襲や新羅を討とうとするのに、兵や船はどうするの?という疑問がわきます。仲哀天皇が紀伊へ行ったのは武内宿禰の地元の紀伊の海人族を動かす為だったと想像します。

そして、『日本書紀』神功皇后の巻にはその武内宿禰と、物部・中臣・大伴・和珥わに氏らの人物が登場しますが、他にも畿内から三韓征伐へ出兵した氏族がいなかったか・・調べてみました。


北風家

 第八代孝元天皇の曾孫 彦也須命ひこやすのみことを祖とし、酢の商いや、北前船の航路を開くなどして一時は兵庫十二浜を支配した豪商ですが、北風家の家伝によると、第六代彦連ひこむらじは、神功皇后に従い新羅に出兵、功ありて兵庫の浦一帯の管理を任されたとあります。


『先代旧事本紀』の記述から


 神功皇后の御子応神天皇の御代に、椎根津彦の後衛大倭直氏やまとのあたいうじ都弥自足尼つみじのすくね明石国造あかしのくにのみやつこに定めたとあります。神戸市東灘区の保久良神社や、仲哀天皇の御代に屯倉となった淡路島に、大和神社から日本大国魂神を勧請したと伝わる大和大国魂神社など、倭直氏が奉斎した神社があり、倭直氏やまとのあたいうじは大阪湾を拠点に活躍していたと考えられます。明石国造に定められたのは三韓征伐出兵の論功行賞の意味合いがあったのではないかと想像するのです。

淡路國二宮 大和大圀魂神社 南あわじ市
拝殿


新屋坐天照御魂にいやにますあまてるみたま神社と磯良いそら神社

 以前、物部氏の伝承地を訪ねるシリーズで紹介した延喜式内大社 新屋坐天照御魂神社の御由緒に、「仲哀天皇の御宇、神功皇后が三韓を征せられるに当たり、新屋の川原にて禊の祓と戦勝祈願をされ、凱旋の後、天照御魂大神の荒魂、幸魂を西の川上(上河原社)と東の川下(西河原社)の辺りに斎祀らせました」とあります。

 西河原社は寛文9年(1669年)に北へ100mほどのところへ遷座され、旧社領には境内社であった疣水磯良神社が鎮座することになります。境内にある霊泉『玉の井』より湧き出る神水は疣水いぼみずという名で知られています(現在給水停止中)。

この疣水は、神功じんぐう皇后が三韓征伐に赴く時、『玉の井』の神水で顔を洗うとたちまち大きな疣が顔にたくさんできて醜い男の姿になり、新羅に勝利し、おかげ参りをした際に再び顔を洗うと、たちまち美しい女の姿に戻ったという伝説の水です。また、境内には神功皇后お手植えと伝わる『井保桜』(現在は枯死)もあります。摂津名所図会に載っているので寛政年間(1796-1798)には咲き誇っていたのだと思われます。

『疣水』『摂津名所図会を読む』創元社
『井保桜』『摂津名所図会を読む』創元社
 正式な社名は磯良神社、通称、疣水神社
鳥居
 バランス良く見える拝殿ですね。黄金比になっているのかな?
疣水拝受所[休止中]
いぼさくらの碑 
住吉社 住吉三神と神功皇后を祀ります


 

敏馬みぬめ神社


兵庫の浦(港)の一つに、かつて敏馬浦みぬめうらがありました。数々の歌が詠まれる景勝地であったようです。その浜には敏馬埼みぬめさきという岬があって東側の入江が「敏馬泊みぬめのとまり」とよばれる船泊りになっていました。6〜7世紀頃まで、生駒山を越え大阪から船出し、この「敏馬泊」で一泊するというのが九州へ向う旅の定番であったようです。

『敏馬社』『摂津名所図会を読む』創元社
『敏馬浦』『摂津名所図会を読む』創元社
古来より、離縁を恐れて花嫁行列はこの神社の前を通らないという、『縁切り』で知られている神社です。縁を切りたい人がいる方はぜひ(笑)
由緒書
 主祭神、現在は牛頭天王の名残か素戔嗚尊すさのおのみことですが、『摂津風土記』にあるように、昔は美奴売みぬめ神だったと思います。
神功皇后を祀る『后の宮』
の由緒書
当地で詠まれた歌


『摂津風土記』の当該部分を引用します。

摂津の国の風土記にいう。
美奴売みぬめの松原。いま美奴売と称するのは、神の名である。その神はもとは能勢のせの郡の美奴売山にいた。昔、息長帯比売おきながたらしひめの天皇(神功皇后)が筑紫の国においでになった時、もろもろの神祇かみを川辺な郡のうちの神前かむさきの松原に集めて幸いあらんことを御祈願なされた。

その時この神もまたおなじく参加して来て、「私も守護しお助けしましょう」といって、教えて言うのは、「私の住んでいる山に須義の木(杉の木)がある。それを伐採して私のために(私の乗る)船を作るがよい。そして、この船に乗って行幸なさるならば、きっと幸福ぶじであらせられるでしょう」と。

そこで天皇はこの神のお教えのままに命令して船を作られたもうた。この神の船はついに新羅を征伐した。還っておいでになった時に、この神をこの浦に鎮座させ申し祭り、船もいっしょにここにとどめて神に奉納し、またこの地を名づけて美奴売(敏馬)といった。

『風土記』吉野裕訳 平凡社



大依羅おおよさみ神社


摂津國住吉郡せっつのくにすみのえのこおりの式内名神大社。神社由緒には、「当地の豪族であった依羅吾彦よさみのあびこ一族が、その祖先である第九代 開化天皇の第四皇子『建豊波豆羅和気王たけとよはずらわけのきみ』をお祀りしたのが起源とされています。その創始依羅吾彦男垂水よさみのあびこおたるみは、神功皇后の新羅征討に際し、住吉三神の御霊を祀るために祭神主を任命されました(この部分は日本書紀に記されています)。帰還後に感謝の思いで祖先と住吉三神をお祀りされたと伝えられています」。

鳥居と社号
拝殿と御神木
依羅吾彦男垂水よさみのあびこおたるみと気長足姫(神功皇后)を祀る祠


さて、摂津の神功皇后出発の伝承をまとめてみましたが、いかがでしたでしょうか?

 新羅征討の帰還後は、近畿一円にめちゃめちゃたくさんの伝承地がありますが、『日本書紀』には、角鹿(福井県敦賀市)から穴門あなと(山口県)へむかう旅程は、『淳田門ぬかたのみなと』という地名と、浮鯛のエピソードしか記されていませんので、出発の伝承地はそれほど多くありません。

 神功皇后に関しては、本当は九州の女王で、東征して大和を制圧したとか、新羅の女王だとか、妄想がすぎるものを見かけますので、神功皇后の伝承は九州だけじゃないんだよと各地の伝承を集めてみました(笑)。


最後までお読みいただきありがとうございます。次回は播磨と吉備の伝承地を巡ります。

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