マガジンのカバー画像

「きたまり Feedback Movement2020」

28
きたまりのダンス歴20年を振り返るnote/ コロナ渦中の2020年「京都市文化芸術緊急奨励金」の採択事業として実施。
運営しているクリエイター

2020年12月の記事一覧

《2008年はダンスの値打ちについて考える》

「きたまり!!トヨタでリベンジしなさい!」という周りの声援のようなプレッシャーのような応援体制に後押しされながら、前年に京都で丹精込めて再創作した「サカリバ007」は年をまたいで大阪・東京・バリ/ジャカルタのインドネシアツアーとJCDN(ジャパンコンテンポラリーダンスネットワーク)「踊りに行くぜ!!」で巡回させてもらっていた。 地域ごとのダイレクトな観客の反応という豊かな栄養をいただきながら、2008年のトヨタコレオグラフィーアワードの最終選考に選ばれる準備を万全にしていた

寄稿/白神ももこ 《きたまりについて》

きたまりとは不思議ととても仲が良い……と思っている。私が勝手に思い込んでいるだけかもしれないが。 しっかりコンテンポラリーダンス界の王道を歩き、自分の「ダンス」というものに向き合いつづけて一本筋が通っている(いや、執拗までに通りまくっている)きたさんと、ダンスからこぼれ落ちて良くわからない脇道を無策に辿って来た私とはそもそも全く違うので、仲良くなることが不思議だったが、こうやってお互い何かの大事な節目に思い出す。多分、年をとっても遠くにいても変わらぬ付き合いがありそうな予感の

寄稿/竹ち代毬也  《きたまりについて》

この原稿をお願いされた時に、きたまりからは出会った頃の話を書いて欲しいと言われました。 はじめて会ったのはダンスボックスが大阪千日前のトリイホールで活動していた時で、ボクは2001年か02年頃に照明の勉強をしたいと思いダンスボックスでボランティアスタッフをはじめました。 その頃きたまりは既にボランティアスタッフとして活動していたのでボクにとっては先輩になります。 お笑いの世界なら「きたまり姉さん」と呼ぶ関係です。 そんな姉さんの印象に残っている事は、「うひょひょい、うひょひ

《2009年は助成金があるからできることがあると知る》

初めてでした。京都で活動する振付家に「おめでとう!」と声をかけられたのが。 春の初めの頃だろか、京都芸術センター前で出会った年上の振付家の方に挨拶をしたら、「きたまりセゾンとれたんだね!おめでとう!京都の振付家でとれた人初めてだよー」と言われ、「へっっぇ」っとなってしまった。「そうなんか…えっ!そうなんだ!」とざざっと顔が青ざめた。「えっ!どうゆうことそれって、どうゆうこと?」と、助成金をとった重みがズズンときた。「買わぬと宝クジも当たりはせぬ。当たるかもしれぬから、助成金

《2007年はいろんなことが繋がり始めていた》

「25歳までに身体をつくりなさい」とダンスをはじめてから口を酸っぱく言われた。 それは17歳でダンスのダの字について考えたことがないまま、いつのまにか踊り始めた私を奮起させる言葉であった。「25歳までに身体つくらないと!」と呪いの言葉のようにいろんな身体作りにトライしていた。 その中でわかったのは、いわゆる先生のお手本を見ながらレッスンをすることが苦手だということだ。みんなが同じ方向で動きを繰り返すような、鏡に向かってするようなレッスンは、ことごとく挫折して脱落した。 そ

《2006年は生意気で不機嫌であった》

はっきり言おう、私は東京が大嫌いだった。 いまはもうそんな気持ちも薄れてあるから言えることである。 根っからの東京嫌いというわけではもちろんない。実は3歳から5歳までは東京都足立区に住んでいたし、親戚や友人も東京にいるし、いまだに標準語はネイティブレベルで話せる。それなのに、東京が大嫌いになったきっかけは最終審査会に選出された2006年のTOYOTA CHOREOGRAFER AWARDE だった。          今思えば私は大学卒業したての生意気な小娘であったが、終

《2005年は興奮状態のまま駆けた》

いまだに忘れやしない、野心をもってダンスを続ける決意新たにしたのは大学3回生の1月だ。 きっかけは大学を休んで飛び立った千日前青空ダンス倶楽部の海外ツアー〈ジャパン・コンテンポラリーダンス・ショウケースツアー〉 だった。アメリカ大陸をNYとカナダ、チリと回った。ツアーを共にした他アーティストはH・アール・カオス、 Noism、BATIK、パパ・タマフマラ、Monochrome Circus、森山開次、という時代を華やぐ方々で、そのショーケースツアーは21歳の大学生には刺激が

《2004年のわたしに落ち着けといってあげたい》

大学ではいろんな授業を受けてダンス以外のことへの興味を強くもっていたのだけど、大田省吾さんに授業中に言われた言葉がきっかけで「どうやら私は演劇ではなくて、舞踊がやりたいんだ」と心がハッキリしたのは3回生だった。そしてそんな気持ちが増すたびに大学生の本業は学生です。ということを忘れつつあった。 前年に上演した【女の子と男の子】が妙に評判が良くて4月に新入生歓迎公演に選ばれ再演したこともあり調子にのったのかもしれない。 真面目に学生をしていた1,2回生の時に単位を順調に取得して

《2003年はいけぬ感情が溢れ出した》

春先に「大学の学費を払うのが大変だ」と母から連絡があり、奨学金の申請をした。 その時にあらためて高額な学費について考えた結果「とにかく学費を使い切ったと思えるくらい学校の施設を使い倒そう」と決意した。 そんな決意が動機になり、自主公演を大学のStudio21でやった。その初めて人を振り付ける機会がダンスカンパニーKIKIKIKIKIKIになった。名前の由来はいくつもあるんだけど、かいつまんでしか答えてきてなかったので、ついに全面公開します。 ①嬉々、鬼気、奇々、危機とか、気

《2002年はいかにも真面目に》

念願の大学生、念願の京都暮らしに心が弾んでいた。 入学式の後に学科の新入生が集まってのオリエンテーションでひとりずつ順に名前と一言の自己紹介をする際に「精進するんで宜しくお願いします」と挨拶したことをよく覚えている。 真面目だった。学ぶことに生まれて初めて意欲をもっていた。 今はもう母校であることを口にするのも恥ずかしい状況になっているが、京都造形芸術大学 に2000年にできた映像・舞台芸術学科は、2002年に入学した私が3期生だから、まだ学科としては3年目で規律がゆる

《2001年は生きているカラダに気づく》

初舞台の後は、ずっとカラダがうずうずしていた。 なので、dbでの身体表現講座やボランティアスタッフ向けの大谷さん(dbのプロデューサー)の舞踏ワークショップ、京都芸術センターでの市民向けワークショップ(明倫WS)を受けにいったりしていた。完全にカラダで表現する中毒性にやられていた。 同時に当時通っていた二つの学校(服飾専門学校の高等課とPL学園の通信過程)も無事に3年で卒業できたので、さて卒業後はどないしようかなぁと思っていた矢先にすでに顔見知りになっていた由良部さんから

《2000年はいつのまにやら踊っていた》

私が10代の時の大阪は文化芸術が華やぐ街だった。 家のある南海線の住宅地から電車にのって街にでると文化芸術が溢れんばかりにあった。それはもう宝石箱のようにいろんな種類のアートがごった返して眩しかった。 その中で、今はもう見る影も形もないが当時難波にあった廃校になった小学校を小劇場にする試みとして、2000年の春に精華小劇場コトハジメ(以下、コトハジメ)という企画があり、そこで募集していたボランティアスタッフに申し込んだのが、私がダンスといわれる身体表現とのダイレクトな出会い

《20年のはじめに》

ダンスを初めて20年になりました。 踊りは言葉よりも雄弁で豊かでないといけない。 と、真面目に信じてやってきたフシがあり、ダンサーとして現役であるうちは言葉を残すということに消極的な態度でいましたが、まあ20年やってきたし、ダンサーというよりは振付家だと自覚してるし、それなりに積み重ねて活動してきたし、この機会にダンス表現を紡ぐ鮮度のある言葉について考えようかと思い、20年間を1年ごとに言葉で振り返ります。 そして、これまでの現場で苦楽を共にした方々は数え切れないくらいお