寄稿/竹ち代毬也 《きたまりについて》
この原稿をお願いされた時に、きたまりからは出会った頃の話を書いて欲しいと言われました。
はじめて会ったのはダンスボックスが大阪千日前のトリイホールで活動していた時で、ボクは2001年か02年頃に照明の勉強をしたいと思いダンスボックスでボランティアスタッフをはじめました。
その頃きたまりは既にボランティアスタッフとして活動していたのでボクにとっては先輩になります。
お笑いの世界なら「きたまり姉さん」と呼ぶ関係です。
そんな姉さんの印象に残っている事は、「うひょひょい、うひょひょい」と謎の奇声?を発しながらエレベーター前のロビーで踊ってる変な女子高生でした。
今からはまったく想像できないけど、当時は「天然系」「不思議ちゃん」とかそんな印象でした。
今思うと普段からそうしたキャラだったのか?ダンスボックスに来た時だけそんな風にしていた(もしくは、そんな風に居れる場所だった)のか?それとも大人を惹きつける策略だったのか?本当のところは分からないけどみんなからは可愛い可愛いと愛されて面白がられていました。
当時のボクは、なんでこんな場所に高校生が居てるんやろか?来てるんやろか?
そんな疑問が無かったのは、他にもっとけったいな人が多かったからかも知れません。
あとハサミと切り取り線のイラストが入った黒い靴を履いてたのを覚えてます。
とは言え覚えてる話はこれぐらい(500字ぐらい)しか無いので、家に保管してるチラシを見返しながら当時のダンス界隈の話を入れて文字数を稼ぐ事にする。
2004年@京都造形芸術大学 細江英公さんの写真の授業時に撮影モデルとして白塗りをほどこした、竹ち代毬也ときたまり。
ボクが舞台活動をはじめたのは1992年。
その頃のダンスの状況とか詳しく知らない事も多いけど、京都府民ホール・アルティで毎年開催されていた「アルティ・ブヨウ・フェスティバル」は関西で活動する舞台人にとって重要な発表の場だったと思います。
ソロで活動している方も沢山いたけど当時は○○舞踊研究所とか○○ダンスカンパニーなど団体やグループでの活動が今よりもっと多かった印象があります。
カンパニーのトップが振付や演出をして、作品のラストではソロを踊る。
他大勢のカンパニーダンサーはそこで習ったテクニックや習得した技術の中で群舞を踊る。
そんなカンパニーの作品が多かったので大きい劇場が必要となる。
ただ、大きい劇場での公演は作る労力と金銭的な負担も大きくなる。
そんな中で「アルティ・ブヨウ・フェスティバル」は会場費やテクニカルスタッフ費の負担が無く、少額の参加費で発表出来る貴重な場でした。
36組のアーティストを金土日の2週末にわたって、1日に6組のアーティストが約20分の作品を発表する企画。
多い時は40組以上の参加で7日間になった年もあり、本当に関西の舞台人にとって重要な場で、ボクも93~97年には大変お世話になりました。
出演者のジャンル様々でモダンダンス、パントマイム、ジャズダンス、ベリーダンス、バレエ、舞踏、タップダンスなどなど。
当時「コンテンポラリーダンス」って言葉はあったみたいだったけど、今の様に多様な表現の在り方を示す「コンテンポラリーダンス」って意味では使われてはいなかった。
そんな当時、活動場所は劇場以外だとライブハウスやギャラリーなど。
京都では永運院や法然院など、表現に理解のあるお寺でも踊ってました。
90年代の半ばぐらいに、ボクは舞踏って枠から離れて自分なりの踊りを探したいと思い舞踏カンパニーから離れました。
同じ頃、ある人はバレエって枠から離れて自分なりの踊りを見つけたいと思い、ある人はモダンダンス、ある人は演劇と何故かその頃色んな表現者が身近に居て、それが関西のコンテンポラリーダンスの始まりになったんたと思います。
ヤザキタケシさんはボク達よりも一早く自分スタイルで活動されていた先駆者でした。
2018-19年くらいの、竹ち代毬也とヤザキタケシさん@UrBANGUILD
色んな表現者が発表の場を求めていた頃、1996年に大阪千日前トリイホールでダンスボックスの企画がはじまりました。
「月曜日はダンスの日」をキャッチコピーに毎週月曜日に1日5組のアーティストが上演する「ダンスサーカス」がメインプログラムとしてスタートした。「アルティ・ブヨウ・フェスティバル」の様に色んな表現者が集まるのは同じだが、劇場の大きさが違うので大人数が出演するバレエやジャズダンスよりもソロやデュオ、4~5名のユニットが多かった。
「ダンスサーカス」は表現者にとっての受け皿になり関西のコンテンポラリーダンスの土壌になっていった。
自分なりの表現を模索したい意欲と、金銭的リスクの低い条件でもお客さんに見てもらえる場の必要性がちょうど重なった時期だったのかも知れない。
チラシのクレジットを見ると1999年から芸術文化振興基金や、企業の協賛がつき始める。
1999年3月のチラシにはそれらが載ってなかったので、年度代わりで何かがあったのかも。
企業による文化支援もこの頃から盛んになった様な気がする。
その後にアートコンプレックス1928、西陣北座、カフェアンデパンダンなどでもダンスの公演やイベントが始まり関西でのコンテンポラリーダンスはどんどん広がっていった。
2001年 当時トリイホールが拠点だったダンスボックスが発行していたフリーペーパー「DANCE BOX通信」。アーティストインタビューや公演批評、観客アンケート抜粋など、ダンスにまつわる言葉がてんこもりだった。
ちょっと文字数も稼げてきたのでまたきたまりの話に戻す。
2002年にダンスボックスの活動場所が新今宮のフェスティバルゲートに移って少しして、ボクが運営スタッフとして働き出した頃きたまりから「ボランティアスタッフ辞めようと思う。」って話を、やや少し申し訳無さそうな感じで聞いた。(そう感じただけだったかも知れない)
京都造形大(現・京都芸術大学)に入って、自分の踊りや舞台活動に時間を優先するためだと思ったし、全然申し訳ない事無いのにきたまりなりの気遣いが嬉しかったんだと思う。(そう感じただけだったかも知れないけど)
それからはボクが担当するダンスボックスの色んな企画にきたまりやKIKIKIKIKIKIのメンバーに関わってもらい、、KIKIKIKIKIKIの公演に裏方のスタッフとして関わったりと、そんな時期が続いてた。
もうこの頃にはコンテンポラリーダンスって言葉は社会的にも定着していて、一般の方、高齢者、障がい者へのダンスWSも増えていた。
ダンスを創る表現者と、ダンスを社会に広める団体と、コンテンポラリーダンスを受け入れる劇場などが一体となって広げていった頃。
またコンテンポラリーダンスはこれまでに習得した技術や型を見せるダンスでは無く、等身大の身体表現だったからカフェやギャラリーなどの場を日常性の中の非日常として作品に出来るこれまでのダンスには無い新しい表現だった事も大きいかったかもしれない。
KIKIKIKIKIKIの活動で変化が大きかったのは、伊丹アイホールの企画「「Take a chance project(3年間アイホールとの共同制作で、作品発表の機会を与える育成プログラム)」。
「これに選ばれたんで竹ちゃん出て欲しい」と電話でオファーを貰い出演した作品が2010年の「生まれてはみたものの」。
これまでKIKIKIKIKIKIは固定メンバーでの活動だったのに、この作品では外部出演者を取り入れる事や映画監督、小津安二郎の「生まれてはみたけれど」を題材にする事で固定のダンスファンやKIKIKIKIKIKI以外の客層へアプローチする事など、いろんな意味で広がりとチャレンジの作品だったと思う。
その方向性は次のアイホールの作品「ぼく」にもつながっていき、きたまりがプログラムディレクターや仕掛人になったことで、「We dance京都」「Dance Fanfare Kyouto」と、沢山のアーティストを巻き込む大きな企画を生んでいくきっかけだったと思う。
2010年「生まれてはみたものの」@伊丹アイホール photo:阿部綾子
そんな躍進的な活動内容とは関係無いけど、関係するエピソードを最後に終わります。
きたまりは自分が踊りきった後の打ち上げの酒の席では、軽快におしゃべりしてワイワイと楽しそうだが、踊ってない時(プログラムディレクターだったり、何とも踊り足りてない時)の酒の席ではそのフラストレーションのためか本当に酷い。
ボクも酒癖悪いからあまり偉そうな事は言えないけど、どれぐらい酷いかと言えば乾杯もしてない、まだビール一杯も飲んでないのに席に着くなりやたらデカい声で近くの若いダンサーにからむ。
場合によっては肩に手を回して逃げられないようにロックオンして「あのさ~あれってさぁ、どーゆーつもりでやってるん?なぁなぁあれって自覚してやってるの?」と本人も気にしている傷口をグイと広げて塩を擦り込む。
そんな場面を見て「あぁ、席離れててよかった」と思った事が何度かある。
生贄となった若いダンサーは「ひィ~、ウザイな~」と思ってるかも知れないし、そう思う気持ちは良く分かる。
良く分かるけどそれはね、期待されてるからなんですよ。
ちゃんとあなたに想いがあっての言葉なんですよ。
時にはディレクターの立場として、気付いて欲しい事を伝える責任をきたまりは背負ってるからなんですよ。
単に絡んでる訳じゃ無いんですよ、とフォローしておく。
なぜならきたまり自身もこれまでに、年上のおっそろしい方々にしごかれて言われ続けて来たから。
そんな先輩の言葉や想いを受けたから、今のきたまりがあるから。
そうした想いを次の誰かにつなぐ事の責任を感じているから。
絡まれるのはイヤやけど、またあの酷い飲み方してるきたまり見たいな~。
あんな風に振る舞って、想いを言い放つダンサーってちょっといてないからなぁ~。
竹ち代毬也 Takechiyo Mariya
演出家・振付家・ダンサー・役者/1992年より舞台を始める。「体の在り方」に興味を持ちながらダンサー、演出家、振付家、ちょっと役者として活動。ダンス、演劇、ミュージシャンなど様々なジャンルのアーティストとのセッションや外部作品への出演多数。
2013年より滋賀県のお寺でダンス、演劇、音楽などの表現者とご住職の説法や手作り市など様々な人が集うイベント「東光寺アートフェスタ」のディレクターと細々とした雑用を毎年行う。好きな言葉はDEAD OR ALIVE!