《2001年は生きているカラダに気づく》
初舞台の後は、ずっとカラダがうずうずしていた。
なので、dbでの身体表現講座やボランティアスタッフ向けの大谷さん(dbのプロデューサー)の舞踏ワークショップ、京都芸術センターでの市民向けワークショップ(明倫WS)を受けにいったりしていた。完全にカラダで表現する中毒性にやられていた。
同時に当時通っていた二つの学校(服飾専門学校の高等課とPL学園の通信過程)も無事に3年で卒業できたので、さて卒業後はどないしようかなぁと思っていた矢先にすでに顔見知りになっていた由良部さんからクラス開講のご案内が届いたのだ。2001年4月から毎週2回レッスンするので受講生募集と。もうね、すぐさま申し込んで嬉々として大阪から往復で4時間半くらいを週2で通いましたね。
それまで単発のワークショップは色々と受講していたけども、腰を据えたレッスンは経験が浅くて、まずストレッチについていけずに四苦八苦した記憶がある。本当にカラダが固かった。しかも最初の数ヶ月は受講生が数人しかいなかったから、時折マンツーマンでしっかり鍛えられるプレッシャーに怯えながら必死で通った。
カラダの扱い方を呼吸、筋肉、意識を分解しながら、丁寧に教えてもらった。にもかかわらず、正直、当時は由良部さんの話す言葉がちんぷんかんぷんだった、言葉の内容もわからなければ、説明しているカラダのことも、外国語を聞いているようだった。
けれど、あの最初の数ヶ月は自分のカラダが嘘みたいに変化していくことに気づいていたし、カラダがみるみる柔軟になっていくことが愉快でしょうがなかったんだけど、当時のことを最近由良部さんと回顧しながら話した際に「レッスンに通い始めたときは、この子は棒にも箸にも引っかからないと思っていたのにねぇ…」としみじみと言われ、なんとまあ無垢なカラダだったのだろうと思い返す。
その少し前にdbの大谷さんがボランティアスタッフ向けの舞踏ワークショプの受講生から「千日前青空ダンス倶楽部」(以下、千日前)というカンパニーを立ち上げた。
なので、いつのまにか大谷さんのワークショップが千日前の稽古時間になっていたが、気にせずに受け続けていたら、ある日大谷さんが「まりの芸名決まったよ。すずめ。次の本番出ようか。」という形で声をかけてくれて、いつのまにか千日前のメンバーになって 7 月びわ湖ホール・夏のダンスフェスティバル【ダンスピクニック】で千日前デビューした。ちっとも踊れない私のカラダにたたずむような振りをつけてくれた。で、千日前ではその後10 月 に京都造形芸術大学 大階段で踊った。もちろん大学で踊ったので観客も大学生ばかりだったのだけど、そこで白塗りのカラダを同世代の目線にさしだした瞬間に「あたしも大学生になって、勉学に励みたい」と強く願ってしまったのだ。
そこからは早かった。
なにせ14歳からサブカルとアングラにまみれながら実践的な人生勉強しかしていなかった小娘がいまさら机に向かって受験勉強にはげむなど到底むずかしいので、翌月にある推薦入試の身体表現実技のみの試験しかチャンスはないと思い、高卒認定をくれたPL学園の通信科の先生に半ば強引に頼み込み推薦書をだしてもらい、京都造形芸術大学 映像・舞台芸術学科 舞台芸術コースの推薦入試を受けた。
身体表現試験の実技テーマは〈二次方程式の数式〉という尖った内容で、初めて自分で身体表現を創作した。衣装はシンプルな黒いワンピースをしつらえて、方程式のXとYのグラフを動線にしてXは手の動き、Yは足の動きというシンプルな振り付けをつくり3分ほどのダンスを踊ったら、実技試験前に教室に入るときは不機嫌なふるまいだった審査の先生が、実技の後には大変機嫌が良かったので「これは受かるんじゃないか…もし受かったら学費の支払いできるかな…」と思いながら帰路につき、数日後に千日前の初海外公演が控えていたのでフランスに飛び立った。
当時は自分でモノクロフイルムを巻いて、暗室で焼くほどに写真にも熱心にハマっていた。《千日前青空ダンス倶楽部》フランス公演のオフショット
フランス滞在中、どうしても推薦入試の結果が気になり国際電話を家にかけたら少し困った口調で「合格通知きたよ、入りたいんよね。どうにかするわ」と伝えられて、喜びとともになんともいえない気持ちになった。そうなのよ、14歳から勉強もせずに好き勝手やってきた私がまさか大学に行けるわけないと思っていたから、どうするんだろう、高額な学費の支払いはどうなるんだろうと思いながら帰国したら、すでに勤めにでてた6歳上の姉がどうにかしてくれていた。
たぶん家族に感謝して密かに涙したのはこの時が初めてだった。
そしてたぶんこの時に、私の14歳で爆発した後にくすぶり続けていた家族への反抗期が完全に終わったんだと思う。
フランスで、はしゃいでる写真。18歳。