《2005年は興奮状態のまま駆けた》
いまだに忘れやしない、野心をもってダンスを続ける決意新たにしたのは大学3回生の1月だ。
きっかけは大学を休んで飛び立った千日前青空ダンス倶楽部の海外ツアー〈ジャパン・コンテンポラリーダンス・ショウケースツアー〉 だった。アメリカ大陸をNYとカナダ、チリと回った。ツアーを共にした他アーティストはH・アール・カオス、 Noism、BATIK、パパ・タマフマラ、Monochrome Circus、森山開次、という時代を華やぐ方々で、そのショーケースツアーは21歳の大学生には刺激がつよすぎた。
みんな全然違うのにかっこええと興奮して、京都に戻って、休んだ授業発表公演の打ち上げに顔を出して、大学を卒業してもダンス続けます。あわよくば某カンパニーに入りたいと思いますと声高々に大学の教授に伝えたら、ものすごく止められた苦い記憶が残っている。要はダンスを続けることは大賛成だが、今は興奮状態だから落ち着け、そしてきたまりは自分で作品を作りなさいと強く勧められた。
ジャパン・コンテンポラリーダンス・ショウケースツアーでの一コマ チリの楽屋で千日前青空ダンス倶楽部のメンバーとの記念撮影
でもね、その年はずっと興奮状態だった。 欲望を見つけた若者は勢いだけが過剰だ。
卒業してもダンスを続ける基盤を狙わねばと鼻息荒くしていたのを覚えている。基盤が何かは皆目わからんが、目標ははっきりしていた。
まず〈踊りに行くぜ!!〉〈トヨタコレオグラフィーアワード〉に近年中に選ばれること、そしてあわよくば伊丹アイホール〈Take a chance project〉に選ばれたら良しと、心にメラメラと火がついていた。
いまは全て無くなったプロジェクトだが、当時はダンス双六のようなステップアップがあった気がする、アガリのない双六だと知らずに、まずはサイコロを振るために作品をつくらねばという心持ちでいた時に、山田せつ子さんに「5月にドイツのダンス大学と交流企画するから作品つくる?」と問われ、二つ返事で「つくる!」と答えた作品が結果的に大学を卒業してもダンスを続けることができた橋がかり的な作品になった【サカリバ】だった。
前年にも同じタイトルで作品は作っていたが、出演者を変えて、私も出演する形で再創作した。実はそれまでは人を振り付ける時は演出・振付に専念するのが当たり前だと思って、出演していなかったのだが、苦いエピソードがあり私も出演し4人の女が踊る【サカリバ】になった。苦いエピソード…なんだっけな。
後にも先にもこんな動機で作品作ることはなかったからこっそりと記しておこう、そうそう、色恋闘争で深手を負ったのだ、毎晩ベッドで泣きいる生活に嫌気がさして、ベッド捨てよう、捨てるものは活用しよう、作品でベッドを使おう、4人の女がベッドに座り静かに始まる【サカリバ】がはじまった。
時折稽古を見ては、ぐうの音もでないコメントだけをして去って行くせつ子さんを見届けながら、「もっと面白くしたんねん」拳をにぎる日々の中、色んなことを試していた。
言葉から振付をたちあげること、音と身体の関係や、ベッドという家具と身体の関係をどうみせるかと、創作中に何度か知恵熱をだすほど、切磋琢磨し、最終的には、出演ダンサー全員に振付を言葉にするというプロセスが課された。
この【サカリバ】は非常に評判が良かった。ある一部の舞台関係者に今後期待の〈関西の若手振付家〉と認定される結果がでた。〈関西の若手振付家〉なんだこのフレーズ。〈振付家〉に〈若手〉がつくのは、まあしょうがないが、そこに〈関西〉がのせられちゃうなんて。いつのまにか〈関西〉という単語が私にのしかかった瞬間だった。大学4回生の時だ。
2005年5月 4人バージョンの【サカリバ】の初演写真@studio21
そして【サカリバ】の上演直後に「踊りに行くぜ!!」の関西選考会にソロ作品をだして、全国巡回アーティストに選出された。
大学卒業後もダンスを続けられる足がかりになると目標にしていた「踊りに行くぜ!!」に自分の作品で出演することが決定したので、これからソロでやっていくという覚悟を決めた。
なので、5年間在籍して数々の経験を積ませてくれた千日前青空ダンス倶楽部を、秋の本公演を最後にを脱退させてくださいと、主宰・振付の紅玉(大谷)さんに韓国公演の最終日にしずしずと告白したら、ものすごく励ましてくれて、そのやさしさに大泣きした記憶がある。
同時に大学4回生なので、大学で卒制も発表しなきゃいけんな…どうしようかな…、大学卒業後のことで頭がいっぱいだったから、肝心の卒業制作についてはあまり考えてもいなかったし、記憶も曖昧で本当か定かではないが、大学の卒業制作は「踊りに行くぜ!!」と同じソロ作品上演でもいいですか?と教授陣に相談したら「振付作品をつくりなさい」と一蹴される。「同級生は卒制の他のチームにすでに決まってて、もう私が誘えるダンサーがいない」と訴えると「下級生にダンスやっている子がいる」と教えられ新歓コンパにのりこんで、6人のダンサーをハンティングして12月に京都造形芸術大学舞台芸術コース卒業制作公演として【プロポーズ】を上演した。
千日前の公演は10月、「踊りに行くぜ!!」は10-12月に滋賀、長崎、金沢を巡回し、卒業制作は12月というスケジュールで、同時並行での創作の中、卒業制作という大学4年間の集大成をみせる公演にむけての、時間がなかった。稽古のたび本番に間に合わせるようにシーンを作っていたら、本番前日のゲネ終わりで担当教員の山田せつ子さんが直接ダンサーを振付して手直しをして帰っていった。で、翌日の本番前にせつ子さんに手直しさせられたところを全部変えた。
卒業制作公演なんだから、担当教員の指導を受け入れても良かったかもしれない。だけど、あくる日のリハーサルが始まってすぐに「これは私の作品じゃない」と客席から舞台上に降りて「私の作品にする」ためのリハーサルをしていた。開演ギリギリまで粘っていた。おかげで初日の舞台はトラブル続出で大変だったが、翌日の公演は「これがやりたいことだ」といえるものが見えた。この時のダンサーやスタッフには本当に迷惑をかけたけど、一緒に粘ってくれたことに、いまさらながら心から感謝したい。
そして、振付家として絶対に譲れないものがあるということを、身をもって覚悟した。
卒業制作のチラシ/オモテ面のビジュアルはサラ・ムーンの写真を参考にして欲しいとリクエストした記憶がある デザイン:相模友士郎