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《2006年は生意気で不機嫌であった》
はっきり言おう、私は東京が大嫌いだった。
いまはもうそんな気持ちも薄れてあるから言えることである。
根っからの東京嫌いというわけではもちろんない。実は3歳から5歳までは東京都足立区に住んでいたし、親戚や友人も東京にいるし、いまだに標準語はネイティブレベルで話せる。それなのに、東京が大嫌いになったきっかけは最終審査会に選出された2006年のTOYOTA CHOREOGRAFER AWARDE だった。
今思えば私は大学卒業したての生意気な小娘であったが、終演後にその小娘に寄ってたかって、批評とはいえぬ文句を言い去って行く魑魅魍魎の大人達の存在があった。「ああ、私はバカにされてんな」とすぐにわかった、そこには敬意も愛情もない。作品で満足させられてないということが、いちばんの原因であることは前提ではあるが、関西から来たよそ者で、若くて、女で、愛想もなく、経験もなく、弁が立たないものの扱いというものを身をもって知った。もちろんすべてがそんな人ばかりでもないから、きちんとした大人達もちゃんといた。ありがたかった。
だけどもう東京には足を運びたくないという気持ちを抱えて、地団駄踏ふみながら京都に帰った。京都に帰るとなぜだか〈きたまりのトヨタの惨敗〉というものがまことしやかに関西のダンス関係者に伝達されていて、とにかくリベンジに向けて頑張れと励まされた。そして惨敗でありながらも、大学卒業した年にトヨタの最終選考に残ったことで、支援育成すべき〈関西の若手振付家〉であり注目すべきポジションの決定打をいただいたのかもしれない。ある意味、本当にこの時は〈関西〉に救われた。
3月の大学卒業と共に自分の創作に集中すると決めて、由良部さんの稽古にも通わなくなり、ダンスボックスのボランティアスタッフもやめていた。それはこれまでお世話になった方々と、これからはアーティストとして新たに関係性を構築したいという決意だった。
そんな決意を汲み取ってもらっていたのか、とにかく〈関西〉ではいろんな現場を与えてもらっていた。
もちろん自分から果敢に挑んだ現場もあるし、創作意欲だけは溢れんばかりにあったので、振付や演出で試せることはなんでもやろうという心意気でいた。失敗もあったし、うまくいったこともあった。
ただ同時に悩んでいたのは、ダンサーをどこまで振付られるのかということだった。リハーサルにはうまくいくことが、本番ではできないということを目の当たりにして、これは何が原因なのかと悩んでいた。少しずつ振付と演出の違いについて考え始めたのはこの時かもしれない。振付はあくまでも身体に対してであり、演出は人に対してかもと思いながらも、自分で道を切り開かなくてはという決意が己を大きくさせようとする表れからか、生意気で不機嫌な態度でいたし、愛想笑いも世間話もできなかったから、本当にこの年はみんなに、周りの大人な態度で付き合ってくれる人々にどれだけ助けられたことか。だけど当時は、けなしてもちゃんとフォローしてくれる気遣いに気づいていなかったから大泣きするか、睨み返すような餓鬼だったので、本当にごめんなさいとありがとうございました。よくまあ小娘の面倒を根気強く見てくださったなぁと、心から2020年の私からお届けします。
2006年 TOYOTA CHOREOGRAFER AWARDE の楽屋にて。生意気面だなぁ。