「内省・内観」~自らの根源をたどる旅~
おそらく私たちの心には、理性と感情の両天秤があり、日々、降り注いでは零れ落ちていく砂のような事象の数々によって、均衡状態と保っているのだと思います。
そこには、前提条件として、「土台が水平であるコト」が求められており、人の心であれば、自らの心を視る主観的視点と客観的視点にズレがないことを言い、両視点が一致していることが、水平であることを担保していると考えます。
しかし、人の心というのは、ときに非常に繊細であり、「自我」というモノに対する自己認識もまた、不確かなものであると言わざるを得ないのでしょうか?
…今回は、「自らの根源=ゼロ地点」を再定義することで、多くの人が、考えたことのある「人生のリセットボタン」を「今、ここ」で設定してしまいましょう、というテーマで書いていこうと思います。
最後までお付き合いいただけると幸いです。
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心を「調える(ととのえる)」。
まずは心を「調える」ところからスタートしましょう。
一般的によく使う「整える」には、「乱れが無いようにキチンとそろえること」という意味が含まれています。
一見すると「心を整える」で問題ないように感じますが、人の心は「乱れが無い」状態を維持することが容易ではありません。
この容易でないことを自らに課すことは、心にストレスを蓄積させるおそれがあります。
人は出来ないことを認めるにも勇気が要ります。
どんなに優秀な方にも、出来ないことはあります。
「整えなければ…」、このような考えは「思い込み」という雑念を生み、より心を乱します。
そうではなく、「調える=ほどよい加減にすること」という考えが大切で、「ほどよい加減」とは、「自らの状態を受け入れる器」を心の中にイメージすると良いでしょう。
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二つの宇宙、二つの視点。
「心を調える」ことは、「自分の状態を知る準備が調う」ことでもあります。
「自分は○○だ」といった「思い込み」を一度解除し、「自分は○○かもしれないし、○○の部分も併せ持っているかもしれない」という「確定させない思考」を保つことが次のステップです。
そのためには、「内観と内省」という二つの視点を同時に展開する必要があります。
とは言え、いきなり「さあ、どうぞ‼」はムチャなので、一つずつ視ていきましょう。
「内観」というのは、「自分の考えや言動、感情を観察すること」で、「自分の外側」にもう一人の自分を置くイメージです。
一方、「内省」とは「自分自身の内面を見る様子」ということで、今度は「自分の内側」に自分を置くイメージとなります。
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それぞれの視点
「内観」は、さらに「理性的側面」と「感情的側面」を切り離して自らを観察します。
「○○という考えから、○○という感情が生まれた」といった具合です。
これが習慣付くと、各種のバイアスに縛られる前に気づくことができるようになります。
それは、バイアスが「認識の歪み=理性に係る偏り」と「思い込み=感情に係る偏り」に分解できると、個人的に考えているからです。
つまり、理性と感情のどちらかの偏りさえ気づき正すことができれば、「バイアス」という「価値への執着」を取り除き、「あるがままを視る鑑識眼」を手に入れることが可能となります。
「鑑識眼」とは「ものの価値や真贋を見極める能力のこと」であり、この能力があるコトで、何らかの「転機=心を乱す事象」が訪れた際、自分の置かれている状況を受け入れ、「ニュートラルゾーン」を意識することに繋がります。
(ニュートラルゾーンについては下記参照)
「内省」でも、「理性と感情の切り離し」は有効です。
ビジネスにおいて、論理的思考を構築する際に「マトリクス図やベン図」を用いることと同様で、常に2軸以上の複眼的な思考を持つ姿勢は、私たちが陥りがちな「固執」を自ら未然に防ぐ効果があります。
人の視覚というのは、「二つの目で一つのモノを認識する機能」です。
物質的な領域でいえば、「左右の目=左右の脳」で、物体を捉える機能ですが、人には「想像力」も備わっています。
つまりは、誰にでも「見えないモノを見る能力」はあると言えるのではないでしょうか?
ここで言う「見えないモノ」とは、「内観による客観視した自分像」と「内省によって自らの内面を見ること」です。
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分離と統合、現在から過去、そして未来へ。
「内観と内省」そして、「理性と感情」という二つに分けていた自分という存在を統合していきましょう。
最初は難しいかもしれませんが、次第に二つの視点の分離と統合がスムーズに行えるようになります。
この段階になってはじめて、自らの根源をたどることが可能になるでしょう。
人は即物的な効果を好む傾向があります。
すぐに効果が出ないと嫌なのです。
ですから、「内観や内省」あるいは「自省」に対しても即効性を求めてしまい、中途半端な自己理解で満足してしまい、それがいかに不確かなものかを精査する思考にフタをしてしまいます。
「今の自分を知る」ことは、予想以上に困難です。
「今」という概念自体が刹那的であるように、人の在り様もまた刹那的なのですから。
そうして、多くの人が、この刹那に惑わされ、再び自分を見失っていくのだと思うのです。
大切なのは、繰り返すことです。
「今」が「過去」に流れていく様を捉えないことには、「未来」という「見えないモノを見る力」が養われることはありません。
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そして根源へと流れていく…。
私たちの「未来」というのは、どこに存在しているのでしょうか?
言葉のままに「今より先」だけを見つめても、そこに在るのは漠然とした掴みどころのない淡い泡のようなものだけです。
私は、「未来」は「過去」の中に埋もれていると考えています。
「今」が「過去」に流れていく表層的な感覚の奥底に、潜在的に存在するものが「未来」だと思うのです。
「内観と内省」を繰り返し、相当な時間を自らを見つめるために使い、幾度も出会っては通り過ぎていった自分自身たちが落としていったパズルのピースが、私たちの「未来像」となるのでしょう。
ここで大切なのは「未来像そのもの」ではなく、過去の自分が落としていった「パズルのピース」です。
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根源とは、それ自体では意味を成さないモノ
「未来の自分」をつくる要素、それこそが私たちの根源です。
私の考える根源とは、たった一つの「その人の特性」ではなく、どんなに認知の歪みや思い込みを引き起こすトリガーに遭遇しても、決して揺らぐことのない「その人の要素」なのです。
ただ、気をつけてほしいこともあります。
根源は必ずしも「善」ではない、ということです。
たとえば、私には「卑屈」や「自己否定」という要素があります。
言葉自体は、あまり良い印象ではありませんが、この要素がもたらす未来は、必ずしも悪いことばかりではありません。
「自己否定」したことで、「他者肯定」を受けることもありますし、これが結果として未来を好転させてくれるかもしれません。
…だとしても、なかなか良い印象ではない根源を認めるのは骨が折れます。
ですから、繰り返すことが大切なのです。
根源を「思い込み」で排除していては、未来をつくるピースが埋まることはないのです。
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いかがだったでしょうか?
読んで下さった方が、どのような環境で、どのような心理状態で、今この記事に目を通しているか分かりませんが、まずは「心を調える」ことを試してみてください。
「内観・内省」に要する時間は、たった数分でも構いません。
理性と感情を切り離し、自分を外側と内側の両面から見つめ直し、いろんな自分と出会い、託されたパズルのピースを素直な気持ちで、そっと握りしめてくれたら、この記事があなたと出会った意味になると思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
今回の投稿は以上です。