けいびい

やりたいことが多すぎるウミウシ。主に雑記としてカテゴリに縛られずとにかく色々なことにつ…

けいびい

やりたいことが多すぎるウミウシ。主に雑記としてカテゴリに縛られずとにかく色々なことについて書いていこうと思っているようだ。ゲーム、邦楽ロック、映画、漫画、小説、自分の部屋、図書館、映画館、一人カラオケなどを好む。

最近の記事

文章って、不完全でいい。

最近すごくよく考えることがある。 それは自分の書く文は完璧ではないっていうこと。 noteは今のところはつづいてはいるが、ちょっとだけ書くことに疲れてしまうときというのがある。 それは自分に期待しているからだと思う。 自分に期待してるからその重荷をどこかで感じながら、それをうっかり直視しないように書ききる。しかし出来上がったものは理想とはほど遠くて、そのことにまた辟易としてしまう。 けれど何度もその期待に裏切られているうちにすこしずつ見えてくるものがある。 「あ、

    • 私がオンラインゲームを5000時間くらいやって気づいたこと。

      ゲームっていいよね。 ゲームをしている時間というのは現実から解放されて自由にいちプレイヤーとして全力でその世界を遊ぶ、ということができる。 私はそんなゲームという遊びが大好きで、私の人生という未だどこに到達するかわからない26年という短い歳月もそれを、あるいはそれでできた繋がりを抜きにして語ることはできない。 繋がり。そうゲーム、特にその中でもオンラインで人と繋がる事ができるものはそれを軸とした一つの社会であり、ある種アリの巣のようなものだ。 餌を探すやつがいて、見つ

      • 私の『無視力』の鍛え方。

        『無視』って単語を聞いたときに最初に抱くのはやっぱり悪いイメージになる人が多いのではないかと思う。 私も別にいい言葉だとは思っていないけど。 しかしこの世には『無視』したほうがいいことは間違いなく存在する。 『無視』っていうのは、それを受け止めていやになったり、傷ついたり怒りを覚えてしまう自分を想像できてしまうからだ。だから見なかったことにして通り過ぎるのを待つ。 でも結果として一度自分のなかで考えてるならいいのではないか、と最近になって思うようになった。 Yout

        • 映画のワンシーンに込められた意味を注視する。

          何度もおなじ映画を観たり、おなじ音楽を聴いたり、おなじ本を読んだりする、という人間がいる。 私は飽き性なところがあるので、贔屓にしているバンドの新曲であれば、耳に馴染んできたあたりで、一度聴くのをやめたりする。曲調にもよるが、それ以上繰り返してしまうと、飽きるどころか嫌いにすらなる。というラインが確かに存在する。 だから飽きずに何度も咀嚼できる人は羨ましいが、中には一度に飲み込んでしまう人もいるだろう。 最近ではコンテンツの消費がどんどん加速していき、質より量が求められ

        文章って、不完全でいい。

          感情と現象を切り分けるためのコツ。

          人とケンカすることがある。 そういうときって相手に向かって「相手じゃなくて自分がどう変わるかっていう話してよ」とか「まずはこっちの言い分を理解してくれよ」とかのド正論をぶつけたくなる。 自分は“わかってる”とか、もうその話しは終わったとか、相手の気持ちは充分に汲めたから、とかそうやって考え方がどんどん歪んで、あらぬ方向に行ったりする。 しかし言い争いや権力争いをしているときのことを振り返ってみてほしい。 そもそも『話し合い』をしなくてはいけない、という現象が起こってし

          感情と現象を切り分けるためのコツ。

          私のルーティンが『読書』だった話。

          ルーティンという言葉自体には複数の意味があるが、ここで言うそれは、特定のある動作や習慣において『集中力のスイッチを入れる』ようなものをイメージしてほしい。ラグビーの五郎丸選手のアレである。 こうやって文を書いているときはまだいい。しかし一度ネットニュースなんかを見始めると途端に意識が散漫になり、気がつくと何時間も経っていることもある。(まあそれはそれで集中しているといえなくもない) そして仕事の時間になり、なにも進んでいない作業画面をみて辟易とするのである。悪循環。負のル

          私のルーティンが『読書』だった話。

          書けないときは“主張”してみませんか?

          書けない。紙あるいは入力ソフトの何もない真っ白な画面を前にいつまでも立ち往生し、やがて真っ白なのは画面か自分の頭かわからなくなって、指の先まで空っぽになってしまった感覚に襲われる。 こんな経験をしたことが誰しも一度はあるだろう。私だってある。というより本当のところ日常茶飯事だ。 そんなとき私が試す方法がある。それが今回のテーマである“主張”すること。 「いやいや、自分の意見を“主張”できるくらいなら、もうとっくに書けとるわ!!」という意見はいったん鞘に収めて読んでほしい

          書けないときは“主張”してみませんか?

          『ただ手を動かす』ということへの誤解。

          先日友人と創作の話をしていてこんな話題になった。 彼曰く、「いま手を動かしてるやつが一番えらい」と。どういうことかと言うと、何かをクリエイトするという活動に対して、やり方やアイデアの良し悪しは二の次で、とにかく『何かを作っている』という行為自体が大切ということだという意味だった。 そして「やり方や構想に取り憑かれるやつ」なんてその「手を動かしてるやつ」に比べるとなにもできてないのと同じだ、と。 もちろんこの友人の主張はある見方の一つであり、そして真理の一つでもあるだろう

          『ただ手を動かす』ということへの誤解。

          ちょっとした工夫で、最大限の効果を得るための“きっかけ”をデザインする。

          日々の生活においてきっかけというのがどれほど重要かということを意識したことがあるだろうか。 例えば明日友達が家に来る。それをきっかけにして家の掃除をする、といったことから、更にはテーブルの上に口の開いたお菓子があったからついつい手を伸ばしてしまうといったものまで様々だ。 目につく、という些細なきっかけによっていろいろな行動が起こされたりするのである。だからこそきっかけをデザインすることは、自分の行動を制御することであると言える。 お菓子が金庫の中にしまってあり、まず地下

          ちょっとした工夫で、最大限の効果を得るための“きっかけ”をデザインする。

          習慣が続かない人のためのハードルの下げ方。

          ここのところnoteを書くのが少し億劫になっている。こういうことはだれにでもあることだろう。何かを始めたくて、勢いで始めてみたが、三日どころか次の日には関心が別のものにうつり、消費期限を向かえた食品がどんどん腐っていくように、もはや手をつけることすらためらわれるようになる。 このとき、自分を責める人がいる。『自分はなんて忍耐力のない人間なんだ』と自己否定し、行動力がどんどんなくなり、観ようと思っていた海外ドラマすら再生することなく一日が終わっていく。 しかし、はっきり言っ

          習慣が続かない人のためのハードルの下げ方。

          「自分をみつめる」とはどういうことだろう?

          「自分をみつめる」というと具体的にどうすることを想像するだろうか。 イメージでは部屋で独りラクな体勢で目を閉じ深呼吸をしながら、瞑想よろしく自分の中に起こる気分に意識を集中させるようなものだろう。クラシックなんかかけてもいいかもしれない。 しかし私の意見は違う。私が思う「自分をみつめる」という行為は自分が表現した言葉やモノに対して「なぜ?」と問うことである。具体的に言うと、自分が残したメモやツイート、言葉に「なぜそんなことを口にする(メモする)必要があったのか?」という疑

          「自分をみつめる」とはどういうことだろう?

          忘れる、ということをできるだけポジティブに考えてみた

          人間は忘れる生き物だ。それはわざわざ言われなくてもわかっているひとは多い。それなのに忘れることに関して誰かを責めるような文化があるのはなぜなのだろう。 察するに、これはパートナーに約束をすっぽかされたとか、古い友人に名前を忘れられたとかそういった個人の尊厳に関わるものがほとんどなのだと思う。『自分のことはその程度の認識だったのか』という怒りや悲しみが招く失望は相手を責めることで表現されているのだろう。 しかしこういう感情を覚えたとき『わたしはどうだろう?』と自問してみてほ

          忘れる、ということをできるだけポジティブに考えてみた

          知っているだけで得する作業興奮という最強のスキル。

          集中することで短期で劇的に能力を伸ばすことができ、それが自分の掲げる目標に向かうための近道である。筋力、体力のように一つのパラメーターじみた判断基準にされ、集中力がない者はやる気がないとされ、自分自身でもそう思い込み、集中力がないことで物事がうまくいかず、自分にはやる気がないのだという自覚を強める。という悪循環に陥ったりする。 しかしなにかに集中するということは大切だ、というのは一般論だが果たして本当にそうだろうか。 そもそも集中とは時間を忘れてひとつの物事に没頭すること

          知っているだけで得する作業興奮という最強のスキル。

          忍耐力についての考察。

          私は昔から忍耐力がない。それは私の人生において、しばしばよく懐いた飼い犬のようについてきては早く遊んでくれと尻尾を振る。 勉強や部活から始まり、仕事、人間関係。今までそれらから幾度も逃げ出してきてやっと居心地がいい環境を整えても、やはりそれは拭いきれない。だからといって何もしないのもそれはそれで罪悪感や責任感や社会性などの主に外的要因から負い目を感じてしまう。 この焦りと忍耐力の欠如という自分の中の相反する要素にずっと苦しめられてきた。おそらくそれは私一人の抱える問題では

          忍耐力についての考察。

          感情をコントロールする問いかけ。

           私は本来怒りっぽい人間である、というと驚かれることが多い。  ときには「そんなことないよ」「優しいよ」とフォローしてくれる人さえいる。  しかし実のところ私の怒りの沸点は実に低い。自分でもそう思うような心当たりがいくつもある。そういうのはいつでも決まってほぼ反射的に、考えてしまうのだ。  例えば私が狭い道を歩いていたとしよう。その日は少し急ぎの用があって息が弾んでいる。道は車が一台ぎりぎり通行できるか、というくらいの場所だ。前方にカップルが手を繋いで歩いている。それもゆ

          感情をコントロールする問いかけ。

          見るまえに跳べという心意気。

           見るまえに跳べ、という言葉を知っているだろうか。  私が初めてこの言葉に出会ったのは、今から十年ほど昔のことだったと思う。当時私は邦楽ロックというものに骨の髄まで浸っていた。と言ってもその年頃の高校生には珍しくもない。ただの『理由なき反抗』だ。  そのときのお気に入りのバンドの一つ(今もだ)に『a flood of circle』があり、そのときのニューアルバム『FUCK FOREVER』、最後の曲が『見るまえに跳べ』だった。  もちろん当時は聴いていて私は、ただただかっ

          見るまえに跳べという心意気。