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感情をコントロールする問いかけ。

 私は本来怒りっぽい人間である、というと驚かれることが多い。
 ときには「そんなことないよ」「優しいよ」とフォローしてくれる人さえいる。

 しかし実のところ私の怒りの沸点は実に低い。自分でもそう思うような心当たりがいくつもある。そういうのはいつでも決まってほぼ反射的に、考えてしまうのだ。

 例えば私が狭い道を歩いていたとしよう。その日は少し急ぎの用があって息が弾んでいる。道は車が一台ぎりぎり通行できるか、というくらいの場所だ。前方にカップルが手を繋いで歩いている。それもゆっくり。二人きりの時間をそうやって引き伸ばしているかのように。どう思うだろうか。私はなんのためらいもなく「いや、邪魔!」と思う。

 あるいは聖人なら、これを男女の微笑ましい愛に溢れた光景の一つとして、見守ってやるくらいのことはしてあげられるのだろう。または賢明な人物ならすぐさま別のルートを探すかもしれない。が、私に関してはその限りではない。

 これは誰が良いとか悪いとかそういった話ではなく、あくまで自分の問題でしかないのだ。ただ損をするのはいつだって怒っている側である。怒りはそれほどまでに労力をつかう。そして今まで何の因果かこうした性格を引き連れたまま大人になってしまった。私自身はこの性格をなんとかしたいと思うとともに、いろいろな策を講じてきた。

 その中で最近すごく効用があるなと実感しているものがある。それは『自分のあり方に関する問い』だ。

 どういうことか。

 先のカップルの件で話してみると、まずカップルが歩いている。邪魔。怒り。ここまではほぼ自動的だ。私にとっては水道の栓をひねると蛇口から水が出るくらい当然のことだ。と、ここでその『怒っている自分』に気づく。

そのときに意識的に己の内側にこのような問いを投げ込むようにするのだ。『自分はどうありたいか』と。

 これでは抽象的なので、もう少し解像度を上げてみると、この問いはつまり、『自分は、この状況、この刺激に対して、どういう反応を示すことができる人間でありたい?』ということである。

 するとどうだろう。不思議なことに落ち着くのである。自分がそのカップルを祝福している様子が思い起こされ、彼らのために歩調を緩め、自分よりも他人の幸せを優先している姿が想起される。そういうこともある、と諦めが着き、呼吸は深くなり、頭に登っていた血の気が引いていくのを感じられる。

 人は誰だって理性では悪い気分になりたくないと願っている、と思う。いつでも喜びに満ち、祝福に満ちた人生を送りたい、と。だからそのレールから外れてしまったときに、理想の自分のあり方を思い出すこうした『問い』が必要なのである。このちょっとした工夫は人生を思いがけず快適にする。

 しかしもしこの問いに、『怒りたい!』と答える、という人がいるならば、その怒りを忘れないうちにその場で手帳に書き記しておくのがいい。絶対に何らかのエネルギーが生まれているはずだから。

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