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感情と現象を切り分けるためのコツ。

人とケンカすることがある。

そういうときって相手に向かって「相手じゃなくて自分がどう変わるかっていう話してよ」とか「まずはこっちの言い分を理解してくれよ」とかのド正論をぶつけたくなる。

自分は“わかってる”とか、もうその話しは終わったとか、相手の気持ちは充分に汲めたから、とかそうやって考え方がどんどん歪んで、あらぬ方向に行ったりする。

しかし言い争いや権力争いをしているときのことを振り返ってみてほしい。

そもそも『話し合い』をしなくてはいけない、という現象が起こってしまった時点で私たちはすれ違っているのだ。

それは相手の感情がとか自分の感情がとかのレベルの問題ではなく。人間が二人いれば全くすれ違わないなんてことが起きるはずがない。ではどうするか。


端的にいえばそれは、『感情と現象』があるということを知る、ということそのもの。具体的に言うと、『感情』とそれに紐づく刺激としての『現象』を考えることだ。

例えば、自分と友人がこのあいだ公開された映画を見に行くことがあるとする。

直近でそんなイベントがあったのは『ドライブ・マイ・カー』だった気がする。そのあと村上春樹の世界観に二人で浸って、近くのバーに入ってロックでウイスキーを飲んだりした。素晴らしい夜だった。

そして映画というのは、どんなものでも観終わったときに少なからず感想が出てくると思う。これは『感情』である。友人とその映画について色々とあーでもないこーでもないと語ったが、もちろん私と同じものは出て来ない。友人は友人、私は私の感想がある。

しかし『現象』の方はどうか。

映画という媒体の場合、『現象』はスクリーンに流れる映像と音。あるいは振動? である。それは観客全員が同じ刺激を受け取っているということだ。

それをなるべく自分の『感情』を廃して観ようとしても必ずどこかでレンズが歪む。そんなことは土台ムリな話なのだ。

だから一度、自分の『感情』を分かち難いものとして自分の中で確定させる。というプロセスが必要になる。そこから『現象』を手繰り寄せるのだ。

『ドライブ・マイ・カー』の例を引き継ぐなら、この映画を見終わったときはたしかに素晴らしくはあったのだが、どこか違和感のようなものを感じた。

その違和感という『感情』は、なにに端を発しているものなのか、という視点で『現象』を手繰り寄せる。

そうすると次第に『感情』と『現象』が紐づき、両方の側面をごく自然に飲み込むことができる。

ケンカの話に戻ろう。

自分が腹を立てているという『感情』。まずはこれを認めなくてはならない。「怒っていない」と自分に言い聞かせてみてもレンズは歪んだまま。

「怒っている」自分を認めることで、はじめて「なにに?」と自身に問うことができる。

だからケンカしたときに一番はじめにすることは、メモ帳に「私は怒っています」となぐり書きすることだと思う。

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