映画のワンシーンに込められた意味を注視する。
何度もおなじ映画を観たり、おなじ音楽を聴いたり、おなじ本を読んだりする、という人間がいる。
私は飽き性なところがあるので、贔屓にしているバンドの新曲であれば、耳に馴染んできたあたりで、一度聴くのをやめたりする。曲調にもよるが、それ以上繰り返してしまうと、飽きるどころか嫌いにすらなる。というラインが確かに存在する。
だから飽きずに何度も咀嚼できる人は羨ましいが、中には一度に飲み込んでしまう人もいるだろう。
最近ではコンテンツの消費がどんどん加速していき、質より量が求められている、と感じることが多くなった。それはSNSや動画サイト、あるいはサブスクがもたらした弊害かもしれない。
私はそういった流れの中にあって、作り手の想いは果たして本当に受け取れているのだろうか。と疑問に思ったりすることがよくある。
創作物にはその表現方法を問わず、常に『作り手の意思』というものが反映されている。
映画のワンシーンを思い浮かべてほしい。
場所、雰囲気、光の加減、服装、髪型、顔色、声の調子、目線、仕草、身につけている小物に至るまで、スクリーンに映っているものにはすべて何らかのメッセージが込められている。
場所が夜で外ならば、なにか暗い性質のシーンなのかもしれない。指輪をしているなら、どんなものだろう。はめる指ごとにも花言葉のように意味がある。靴はどうだ。汚れているなら急いでいるのかも。あるいはそれは過去のことかもしれない。目線は。落ち着かない様子なら緊張しているのか。呼吸は浅いかそれとも......。
映画であればワンシーンにこれだけの意味が込められているのはザラだ。あるいはこれでは少ないかもしれないが。
つまり何が言いたいかというと、これらの情報は一度その短いシーンを観ただけではその半分もわからないのではないか、ということだ。
それがわからなければその場面がもつ本当の性質もわからないだろう。その性質がわからなければ、その映画がもつ起伏に富んだ感情の波もすくい上げられない。
これらの作り手のメッセージに気づくには、もう一度足を止めてゆっくりとその場面を注視する必要がある。
そしてそこに映るものに、「なぜ?」という問いを投げかけることだ。ただし、そこに意味はないのかもしれない。作り手は何も考えずになんとなくその場面を撮っているのかもしれない。
しかしもし仮にそうであったとしても、私たち受け取る側が「なぜ?」と問うなら、作品は必ずその答えを用意してくれるものなのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?