見出し画像

書けないときは“主張”してみませんか?

書けない。紙あるいは入力ソフトの何もない真っ白な画面を前にいつまでも立ち往生し、やがて真っ白なのは画面か自分の頭かわからなくなって、指の先まで空っぽになってしまった感覚に襲われる。

こんな経験をしたことが誰しも一度はあるだろう。私だってある。というより本当のところ日常茶飯事だ。

そんなとき私が試す方法がある。それが今回のテーマである“主張”すること。

「いやいや、自分の意見を“主張”できるくらいなら、もうとっくに書けとるわ!!」という意見はいったん鞘に収めて読んでほしい。

“主張”あるいは“極端に強い主張”は賛成反対を問わず、聞く人に“立場”という性質を与えることができるのだ。

賛成は賛成の意見、反対は反対の意見など、それぞれが同じ“主張”を聞いても抱く印象や姿勢は当然ちがう。そしてそういう思考が生まれるときには決まってその人なりの理由やディティールが存在するためだ。

私はテレビ番組の『人志松本の酒のツマミになる話』がお気に入りで、毎週TVerで観ている。笑えるし、ときどき深く考えさせられるようなトークテーマを持ってくる芸能人もいる。

あの場は誰か一人を選んでまず“主張”させるのだ。そしてそれを受けて、酩酊状態の酒の席でそれを面白おかしくこねくり回す。たまにとんでもない飛躍の仕方があったり、前半でやったトークテーマがフリになっていたりとずっと観ていても飽きることがない。

そして何より、まず誰かに強く“主張”させることによって、視聴者もその席の末端に加わることができるのだ。

「ええ~そうかなあ」「たしかにこれはわかる」「これ全部に当てはまるわけじゃなくない?」そういうときに思考というものは、汲めども尽きぬ泉のように湧き出てくる。

「一方を強く“主張”するということは、他方を切り捨てることじゃないのか? そんなひどいことはできない」という意見もあるかもしれないが、それも一つの立派な“主張”であり、そう思う理由が必ずある。

そして別に強く“主張”するからといって、別に他方を切り捨てることにはならない。どちらの意見も正しいものとして認めればいいのだ。

そして何なら人間というものはよくできていて、いま自分が“主張”しているものと逆の立場をとる、と仮定してもある程度は説得力のある言論をひねり出せたりもする。

大切なのは自分がどういう立場をとるか、という決断を下すことだ。賛成か反対か。そしてそれを「なぜか?」という視点で深掘りしていくのだ。

試しに身近な人と一緒にテレビでも観てみてほしい。SNSなんかもいいかもしれない。この世には“主張”が満ちている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?