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「自分をみつめる」とはどういうことだろう?

「自分をみつめる」というと具体的にどうすることを想像するだろうか。

イメージでは部屋で独りラクな体勢で目を閉じ深呼吸をしながら、瞑想よろしく自分の中に起こる気分に意識を集中させるようなものだろう。クラシックなんかかけてもいいかもしれない。

しかし私の意見は違う。私が思う「自分をみつめる」という行為は自分が表現した言葉やモノに対して「なぜ?」と問うことである。具体的に言うと、自分が残したメモやツイート、言葉に「なぜそんなことを口にする(メモする)必要があったのか?」という疑問を向けることである。

この行為がもたらす効用はある重要な真実を含んでいる。それは、無意識の発見である。

たとえば何かの作品を観ていたとする。映画、ドラマ、アニメ、音楽、なんでもいいが、そういうものに対して「いいな」「好きだな」と思ったりする。

私の例を挙げれば、最近Netflixの『コブラ会』にドハマりしてシーズン4までをほぼ一息で観終えてしまった。その感想は「おもしれ~w」である。記憶消してもういっかい観たい。シーズン5はよ。

さて、この作品という刺激に対しての反応はほぼ無意識と言っていいだろう。とんでもなく難解なモノを除いて、「好きだ」と感じるものは無意識かつ、なんのてらいもなく好きなのだ。

「自分をみつめる」というのはここから一歩踏み込む行為である。

私の例で言うと「なぜこんなに『コブラ会』が好きなんだろう?」という問いを二次的に自分の中に投げかける。その答えを考えてみる。「アツいから」という答えがまず出てくる。そして自分の中の無意識に輪郭を見出すことができるのだ。

この場合、「私は存外に直球で王道な少年漫画みたいなプロットに惹かれているのかも」という仮説も立てることができる。この結論に行き着いたとき、私はぼんやり描いていた自分の像と少し違う自分の好みを自覚することができた。

その仮説で以て振り返ってみると、『コブラ会』の構成の巧さ、緊張、緩和の波の幅、カタルシス、そういったものが分析的視点を得て、より深く理解できるようになる。そして次の「なぜ?」が生まれる。

それを繰り返していくと、自分と世界の解像度がどんどん上がっていくのだ。以前は気づかなかった細かい視点、細かい尺度で物事を見つめることができるようになる。

だからメモかなにかに「この作品よかった」と書いてあるだけでいいのだ。そしてそれを読んでそのことについて思い出すことが「自分をみつめる」ということになるのだ。

つまり結論はこうなる。
『コブラ会』を観てない人は観てみてほしい。観た人は語りましょう。


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